第6部 慟哭のホラン河~満州開拓団集団自決~

(14)収容所 毎日30人が病死

2015/02/28 10:41

 1945(昭和20)年8月17日、高橋村(豊岡市但東町)の開拓団の自決現場を離れた石坪馨(かおる)さん(86)は、仲間とハルビンを目指した。だが途中で中国人に捕らえられ、蘭西県公署(県庁)にいた旧満州国の反乱軍に引き渡された。

 「県の日系役人と間違えられ拷問を受けて。やっと、自決で生き残ったもんのいる建物に入れられました。そしたら3人の弟のうち、二つ下と六つ下の2人が飛びついてきたんです。ああよかったと思いました。生きていてくれてありがたかった。お母さんはどうした?と聞くと、一番下の5歳の弟を背負って飛び込みなって、浮き上がってきなれへんなんだと言ったんです」

 石坪さんたちはアヘン患者の病棟などを経て、ハルビンの新香坊難民収容所に移る。収容所では、元気な者は口減らしのため、街で働いた。16歳の石坪さんも、日雇い仕事や中国共産党軍の塹壕(ざんごう)堀り、旧ソ連軍相手の用心棒などをした。

 「難民収容所では、病気で大勢亡くなったんです。合わせて3千人くらいおって、毎日毎日、30人くらい葬式ですわ。多い日は70人くらい。と言っても、畑に穴を掘って放り込むだけですね。生き残ったもんも、ほとんどがチフスやら病気にかかっとりました」

 但東町教育委員会発行の記録「国策に散った開拓団の夢」によると、開拓団では、団長ら19人が難民収容所で病死した。両親ときょうだい3人が自決し、孤児となった山下幸雄さん(81)も収容所に送られた。

 「1日に小さな缶詰の缶におかゆさんが2杯でした。栄養失調ぐらい楽に死ねる方法はないですよ。さっきまでごちそう食う話しとって、おとなしなったなと思ったら、喉がガラガラと鳴るんですね。それでドンとしたら終わりです」

 「私は12月ごろに発疹チフスにやられまして、いよいよ番がきたと思いました。収容所の医者が『この子は今晩かあしたぐらい、だな』と言って、『3日分だから飲ませてくれ』と枕元に薬を置いたんだそうです。それをいっぺんに飲んで、泡ふいて苦しかったのを覚えてるんですけど、毒が抜けたんでしょうか、元気になりました。後で『薬もろたのはあんただけでっせ』と聞いて。運がよかったという話をしました」

(森 信弘、若林幹夫)

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