旧満州北安村の入植地から蘭西県城へと避難した高橋村(豊岡市但東町)の開拓団は、河川を警備する旧満州国の軍が反乱を起こしたと知らされる。日本人官僚の副県長は銃殺されたという。1945(昭和20)年8月15日夜、石坪馨(かおる)さん(86)たち団員は再び、避難を余儀なくされた。
「現地人の県長がハルビンまで行けるように軍と話をするということで、城門の外の広場で連絡を待っていたんです。そしたら翌日になって、徴用帰りの現地人が通りかかって、『日本の兵隊にひどい目に遭わされたから、お前らに仕返ししてやる』と言ってきた。最初は懐中時計や万年筆を渡しとったんだけど、もうきりがあらへんですわ」
「こちらは、相手に警戒されんように銃は捨ててしまってましてな。私は小刀を振り回して応戦しとったんです。それでも、いつまで待っても県長の連絡はなく、もう耐えきれんようになって広場を離れました。400人ほどが飲まず食わずで歩くから、長い列になっちゃってねえ。私は列の前へ後ろへと行って、見張りをしとりました」
当時12歳だった山下幸雄さん(81)も、衣類などを奪おうとする暴徒の姿を記憶している。
「金出せ、服脱げ、と言われました。日本の敗戦を知らされていましたから、これが現実かいな、敗戦国やから何されてもしょうないやと思いました。向こうは鎌を持っとるけど、こっちは何もない。泥を投げつけるしか抵抗する手段はないです。私は泥を大人たちに、よいしょよいしょと渡してね」
山下さんには3歳になる弟がいた。追い詰められていく中で、父がある決断を下す。
「弟は腹が減るから泣く。すると敵に見つかってしまう。しゃあない、この子を殺そうとなりました。父は短刀を持っとったんで、『最期だから顔を見とけ』と言いました。それで家族みんながのぞき込むもんですから、弟は何かええものでもくれると思ったんでしょうね、にこっと笑ったんです。その途端に母が『これからは絶対に泣かせへん。この子を殺すんやったら、私も一緒に』と言ってかばったんです。それから自決するまで、弟の泣き声を聞いたことはなかったです」
(森 信弘、若林幹夫)
2015/2/23