まゆ根にプクッと膨らんだほくろ。人情味あふれる表情の「寅さん地蔵」から一行は歩きだした。
大阪の文化活動グループ「熟塾」の会員ら約五十人。十四日、映画「男はつらいよ」最終作の舞台となった神戸市長田区を訪れた。寅さんを迎える会のメンバーが案内、復興途上の商店街などを回った。
発案した熟塾の原田彰子代表は寅さんの大ファン。だが、「神戸の復興は今後の都市災害のモデルになる。大阪に住むわれわれにとって、ひとごとではない」。そんな思いも抱く。
十七日を中心に被災地ではさまざまな行事が続く。慰霊・追悼、検証…。震災五年の節目から六年へ。市民の自発的な事業はむしろ増えた。情報を集める阪神・淡路大震災記念協会は「風化を防ごうと市民が動き始めた」とみる。
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六日、神戸市中央区の神戸東部新都心で開かれた「阪神・淡路大震災メモリアルセンター」(仮称)の着工式。県や県会、国会議員、建設業者らを前に貝原俊民知事があいさつした。
「震災の教訓を国内外に発信するセンターを立派に建設、運営することが私たちの使命」。熱っぽい口調に、難産だった防災拠点への意気込みがうかがえた。
センターの構想は震災の直後に浮上。しかし、復興特定事業に選ばれたのは二〇〇〇年二月、阪神・淡路復興対策本部の最終本部会議だった。当初、現代文明の創造をテーマとした総合研究機関の設立を検討したが、その後、防災に特化。国家事業としての実現を目指したが、かなわず、国との予算交渉も難航した。昨年九月には、生命の尊さを学ぶ場として計画していた「ヘルスケアパーク」を併設することも決まった。
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過去の災害の記憶はどう受け継がれたのか。
九月一日の「防災の日」を定めるきっかけとなった一九二三年の関東大震災。東京都の復興記念館は三一年、約四万人が火災に巻き込まれた陸軍被服廠跡(りくぐんひふくしょうあと)に建設された。溶けた鉄製品やガラス瓶、絵画など約一千点が並ぶ。
管理するのは都建設局東部公園緑化事務所。植木のせん定など公園の一部として受け持つ。「保有する遺品は展示品の数倍あるが、数も分からない」。管理課の常山和則さん(54)はそう説明して、うつむいた。昨年、阪神大震災のパネルコーナーを設置したが、それ以前、いつ展示替えをしたかも記録に残っていない。
兵庫県では、二五年の北但大震災で犠牲者が集中した豊岡市などが、地震の起きた五月に今も防災訓練を続ける。だが、四六年の南海地震は記録すらほとんど残っていない。三八年の阪神大水害の十数カ所の慰霊碑は、知る人も少ない。
阪神大震災はほとんど備えのない中で発生し、被害を拡大させた。震災の記憶の継承は被災地が果たさなければならない義務。中核を担うメモリアルセンターは二〇〇二年春に第一期が完成する。記憶の集大成であり、国際的な防災の拠点ともなり、末永い集客性も持つ。行政と市民が連携し、それらをどう並立させるのか。
被災地の力と姿勢が問われている。(小日向 務)
=おわり=
2001/1/17