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(上)行き場 位置付け依然あいまい
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再開した仮設コンテナ前に集まったいかり共同作業所のメンバーたち。笑顔がこぼれる(1995年3月)
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再開した仮設コンテナ前に集まったいかり共同作業所のメンバーたち。笑顔がこぼれる(1995年3月)

再開した仮設コンテナ前に集まったいかり共同作業所のメンバーたち。笑顔がこぼれる(1995年3月)

再開した仮設コンテナ前に集まったいかり共同作業所のメンバーたち。笑顔がこぼれる(1995年3月)

 災害時、日々の生活に支援を必要とする障害者や高齢者、いまだ社会的立場の弱い女性や外国人らには、見えないところにまでその影響が及ぶ。阪神・淡路大震災から十年。彼らは少しでも安心して暮らせるようになったのだろうか。そして新たに見えてきたことは-。まずは、被災した小規模作業所を訪ねた。

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 岸本知之さん(29)は朝方、眠りにつく。いかり共同作業所(神戸市兵庫区西出町)に通うのは月に数日と、震災前に比べてめっきり減った。それでも「いかりは卒業しません」と言い切り、自宅のファクスに届く「いかり通信」には必ず目を通す。

 「昼夜が逆転してるんで作業所に行っても寝てしまうけど、帰ってきたら『今日は頑張った』って誇らしげでね」。母親の美恵子さん(60)は、そう言って目を細める。

 戦後すぐに簡易宿泊所として建てられたいかりの建物は、震災で全壊した。知的、身体的にハンディをもつメンバー十二人が空き缶回収や清掃作業などをしていたが、行き場を失った。自閉症の知之さんは、地震のショックと自宅での待機が続いたことが重なり、昼夜が逆転。一歳上の兄がたてる生活音に耳をふさぐようになり、医師に「自分だけ働きに行けないつらさでは」と診断された。

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 一年三カ月後。いかりは民間の援助を受けて元の場所で再建した。木造から鉄筋になり、二階のベランダからは災害時に逃げやすいよう滑り台を備え付けた。現在第二作業所も合わせて、二十一人が紙すきのはがき作りなどに励んでいる。

 「再開までみんなに『いつからいかりに行けるの』って聞かれ、答えられないのがつらかった」

 そう言いながら、光岡留美子所長(46)が写真を見せてくれた。震災から二カ月後、仮設のコンテナ前でメンバーたちが満面の笑顔で写真に納まっていた。震災は、メンバーにとっての作業所の存在の大きさをあらためて痛感する出来事だった。

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 養護学校を卒業後、行き場がない障害者の受け皿となっている小規模作業所は、当事者や家族が自治体の補助金やバザーなどで得た資金で、民家やアパートを借りて運営していることが多い。

 県社会福祉協議会によると、震災で神戸・阪神間の百六カ所のうち三十八カ所が全半壊した。その九割以上は木造家屋で、弱い運営基盤が直撃された。しかも法律で認可されている通所授産施設の再建には国の補助があったが、作業所は無認可のためなかった。

 「認可であろうと無認可であろうと彼らにとっては同じ社会参加の場。なのに…」と光岡所長。

 この時の無念さに後押しされ、いかりは通所授産施設へのステップとして、二〇〇一年度に小規模通所授産施設に移行し、法人格を取得した。だが、その補助額も本年度から五十万円削減されるなど、障害者が地域で暮らし、社会に参加していく場としての位置付けはあいまいなままだ。

メモ

小規模通所授産施設

 作業所が安定した運営ができるように国が2001年度に創設。基本財産1000万円で社会福祉法人格を取得でき、国と自治体から年間1050万円が補助される。1法人で複数の施設を運営でき、グループホーム事業などもできる。兵庫県内に現在61カ所ある。

2005/1/12
 

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