阪神・淡路大震災で、もろい運営基盤を直撃された小規模作業所。全半壊した三十八の作業所は、民間の援助や阪神・淡路大震災復興基金を受けてすべて再建したものの、景気低迷の影響もあって厳しい状況は今も変わりない。一方で、新たな動きも芽生えてきている。
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「うちだけでは立ち上がれない。一緒に歩もうよ、という感じだった」。神戸市長田区三番町の小規模作業所「くららべーかりー」代表の石倉泰三さん(52)は、震災の年をそう振り返る。
同区内にあった八作業所のうち、七カ所が全半壊した。「くらら-」は半壊し、パン作りの機械も壊れた。約一カ月後に応急修理し、倉庫に残っていた材料で焼いたパンを、近所や避難所で配った。
「ずっと地域に支えられてきた。だから、少しでも返したかった」
同区内の作業所に呼び掛け、毎月十七日に店先でバザーや炊き出しをする「一七市」を、十一月から始めた。
「それが徐々に地域に広がった。パンが焼けるようにじっくりと…」
年に一度、秋に開く「一七市拡大版」には、ボランティアグループなども加わり、参加は五、六十団体に上る。市場の空き店舗を利用し、地元の子どもたちが作業所の商品を売る。作業所同士や、地元の企業関係者らも交え、「売れる」作業所商品の開発にも取り組んでいる。
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同様のネットワークは、ほかの地域でも生まれつつある。「ただ長田は、被災の影響が大きかった分だけ、エネルギーになったのかもしれない」。震災翌年から被災地の小規模作業所の活動を支援し、同区大塚町の「生活の場サポートセンターひょうご」事務局長も務める凪(なぎ)裕之さん(32)の思いだ。
震災は、小規模作業所の被災状況とともに、それまであまり知られていなかった存在がクローズアップされる機会にもなった。「大きな障害者施設と違って、軒を連ねた民家やマンションの一室にあったからこそ、住民の目に触れ、理解が深まり、作業所からの働きかけも進んだ」と凪さん。
この十年、行き場のない障害者たちの単なる“受け皿”から、自立した生活につなげる場を目指してきた小規模作業所。地域とどのようにかかわっていくかという考え方に違いはあるが、その必要性はみな感じている。
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「くらら-」の二〇〇五年の仕事始めの朝。
電動車いすで出勤する男性に、「あら、おはよ。がんばりよっ」。擦れ違う女性から声がかかる。作業場では六人が、石倉さんら職員とともにパン作りに精を出す。
「今年は自分で一日で百個焼けるようになりたい」「頑張っておいしいパンを焼く」と抱負を語るメンバーたち。
焼き上がったパンは店舗で売られ、地域の保育所にも運ばれる。他の作業所にも配達作業を請け負ってもらっている。
「この十年はつながりをつくった。次の十年はそれを雇用につなげていきたい」。石倉さんは言葉に力を込めた。
(松本寿美子)=第1部おわり=
2005/1/14