三宮・東門の路地。扉を開けると、やっと一人が通れる階段しかない。カラオケの歌声を聞きながら上った先に、カウンター席だけのこぢんまりしたスナックがある。
ママの故郷の同じ銘柄の焼酎ばかり、棚に五十本は並んでいる。ボトルキープすれば、一杯五百円。常連とママの話が弾む。年配の客は「ここは昔の東門の雰囲気がする」と、ご機嫌だった。
木造二階建ての建物は十二年前、阪神・淡路大震災で倒れそうになったという。四五度傾いた、とも聞いた。それを引き戻して補修した。
空き地が目立つ路地の道幅は、わずか約二・五メートル。現在の建築基準法では、道の中央から二メートル下げて建てるのが決まりだ。建物は約三十平方メートルの敷地いっぱいに建っているが、建て直すなら、今より約八十センチ分も後退しなければならない。
路地には震災前、同じような二階建て貸店舗が多かった。大半が倒壊した。建て直せば、さらに狭くなる。そのことも再建を阻む一因になった。
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駐車場となった場所に店があった人たちは、どうしているのだろう。私たちは、探してみた。別の場所で店を再開した人は、見つけやすかった。
「そのだ」は、東門筋の東側にあるビルに移った。夜、店を訪ねた。
「あの駐車場は念願の独立を果たした場所。愛着はありますよ」
マスターの薗田堅一さん(60)は宮崎県出身。中学卒業後、集団就職で神戸へ。三年半後に転職し、スナックで働き始めた。二店で修行を積み、独立したのは一九七六年。店は繁盛し、兄に借りた開店資金の三百万円も一年半で返せたという。
九五年の正月、東門筋のビルに二店目を開いた。その八日後、地震に見舞われた。二店とも被災し、復旧のめどが立たず、手放した。開店のための借金だけが残った。妻と子ども三人を養うため、日雇いの建築現場に通った。
三年目、かつての常連客からの電話が転機になった。「もう一度、店をやってみたら。お前にはこの道しかないだろう」。そう言って三百万円を用立ててくれた。
九八年、薗田さんは東門に戻れた。ただし、今度の三百万円はまだ返済し切れていない。
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店を止めた人を探すのは難しかった。帰郷した人もいるようだった。
やっと出会えたのは、スナックのママだった井上泰子さん(56)。夫とともに十七年間、カウンターに立った。震災後は、市内のサウナでマッサージの仕事をしている。
スナックの客足は、震災の二年ほど前から減り始めたという。それでも、二十年続けることが目標だった。昼はマッサージの仕事をするようになり、夜は店で働いた。
狭い敷地に、地震でつぶれた建物は再建されなかった。「店を閉めるのは不本意だった」。生活に追われる今、当時を振り返ることはないという。それでも、当時の常連客とは連絡を取り合っている。
「人のつながりという宝物は残りました」
2007/1/15