三宮・東門は、空襲で焼け野原になった。稲葉孝朗さん(60)は、終戦の翌年の生まれ。同じ年、父が東門で、氷と燃料を扱う商店を始めた。
私たちは、戦災から復興する東門とともに育った稲葉さんに話を聞いた。路地には一九五〇年代から木造の小さな貸店舗が相次いで建ったという。
稲葉さんは六九年に大学を卒業し、家業を継いだ。六年後、土地を買い足し、四階建てのビルを建てた。震災で、そのビルは全壊。路地に立ち並ぶ建物も崩れ落ちた。「復興できるか不安だった」。稲葉さんは一計を案じた。
「みんなで土地を持ち寄り、共同ビルを建てないか」。震災の一年後、狭い敷地の地権者らに共同化を呼びかけた。計画範囲は、自身の被災したビルと東門筋を挟んで接する神社東側の約千二百平方メートル。生田神社会館に約三十人が集まった。
「震災前のように小さな貸店舗が乱立しても、集客力は見込めない。東門だけでなく三宮全体が行き詰まる」。そう考えた。以来、会議を重ねたが、一度も出席しない人が数人いた。
地権者の多くは当時、六十、七十代。「借金してまで再建する気力はなかったのだろう」。合意を得られないまま一年が過ぎ、「もう待てない」と、しびれを切らす地権者が出始めた。会議への参加も十人ほどに減り、計画は立ち消えた。
「実現していれば、少しは違った街になったかもしれないが…。それぞれの事情も理解できる」。稲葉さんは、今はもうさばさばと語る。そして言い添えた。
「空き地の解消には、まだまだ時間がかかるよ」
共同化を目指した範囲の四分の一にあたる約三百平方メートルが、今も駐車場や更地のままだ。
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東門筋には、八〇年代末、若者たちが通い詰めたディスコがあった。ビルの跡地は震災後、一本東の路地まで見通せる大きな駐車場となった。
地権者を訪ねた私たちは、長男(56)に話を聞けた。現在でも複数の大手建設会社から再建計画の打診があるという。しかし、長男は「採算が合わない」と断っている。
「あそこはもう古い街やから…」
長男のつぶやきは、東門は既に盛り場としての魅力を失っている-とも聞こえた。
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九六年から、東門筋で復興状況を定点観測していた関西学院大の角野幸博教授(都市計画)に、にぎわいを取り戻すためのヒントを聞いてみた。
答えは「まずは視野を広げること」。周辺には北野や旧居留地など個性的な街がある。「東門をその回遊ルートととらえ直し、歩いて楽しめる空間に」というわけだ。
取材した東門の関係者は皆、社用族の接待でにぎわった高度成長期やバブルの熱病に浮かれたころを懐かしそうに語った。そして、「もうそんな時代じゃない」とも。
地権者の代替わり後に期待する声も聞いた。神戸全体の活性化が東門の再生に不可欠、との意見もあった。
仕切り直し、という言葉が頭に浮かんだ。震災から十二年、まちの“地力”があらためて試されている。
(田中陽一、直江純、太中麻美、土井秀人)=おわり=
2007/1/16