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戦闘機「紫電」の墜落場所を指さす藤本幸三さん=多可町中区森本
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戦闘機「紫電」の墜落場所を指さす藤本幸三さん=多可町中区森本
戦闘機「紫電改」の実物大模型=加西市鶉野町、soraかさい
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戦闘機「紫電改」の実物大模型=加西市鶉野町、soraかさい

 1945(昭和20)年4月15日。兵庫県多可町中区森本の田んぼに、旧海軍戦闘機「紫電」が墜落した。ごう音とともに機体がばらばらに砕け散り、周辺は真っ黒な煙で包まれたという。78年前の出来事を、当時の住人は鮮明に覚えていた。(敏蔭潤子)

 「爆音を聞いた直後、米軍機が墜落したと思った」。現場近くに住んでいた藤本幸三さん(90)は振り返った。

 自宅から飛び出し、約300メートルほど東の現場に走った。田んぼには直径5メートルほどの穴が開き、機体の破片が四散していた。道は大きな土の塊でふさがっていた。

 藤本幸三さんの同級生、藤本哲郎さん(90)=同町=は、配給のしょうゆをもらって帰宅する途中に紫電の墜落を目撃した。翼に描かれた日の丸が目の前を通り過ぎた直後、大きな音がして一帯が黒煙で覆われたという。「油が燃える嫌なにおいがした。まっ暗で前に進めなかった」と、当時を思い起こす。

 太平洋戦争中、森本から約18キロ南の兵庫県加西市鶉野町には、旧姫路海軍航空隊鶉野飛行場と川西航空機姫路製作所鶉野工場があった。同航空隊を調査する上谷昭夫さん(84)=同県高砂市=によると、紫電は同工場で組み立てられ、完成した飛行機を実戦部隊に引き渡すための試験飛行中に事故が起きたという。

 「操縦士は頭を胸部に陥没させていて即死していた」。上谷さんが編集した川西航空機秘話「紫の閃光(せんこう)」には、多可町の郷土史家故川口昭三さんが、事故についてそう記している。

    ◆

 藤本幸三さんによると、当時は同町の上空を通過する敵機が増えていたという。「空襲に備えた消火訓練もあった。母親たちは小学校でバケツリレーの練習。家の前には水を入れたバケツを常に置いていた」

 学校には兵士が宿泊し、「勉強をせずに山行きばっかりやった」。チャーチルやルーズベルトに見立てた人形に向け、竹やりで突く練習をさせられた。「漫画みたいな話やろ。でも、そういう教育やった」と顔をゆがめる。

 昨年4月、加西市は同市鶉野町に平和学習拠点「soraかさい」をオープンした。旧姫路海軍航空隊などの歴史を紹介し、紫電の改良型戦闘機「紫電改」の実物大模型も展示されている。

 藤本幸三さんは紫電の墜落について知ろうと訪れ、10~20代の若いパイロットたちが、試験飛行や戦場で命を落としたことを知った。声を落としながら「多可町にも戦争の傷痕があることを知ってほしい」とつぶやいた。

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