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原形をとどめない状態の車両で乗客の救助に当たる人たち=2005年4月25日午前10時38分、兵庫県尼崎市潮江4
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原形をとどめない状態の車両で乗客の救助に当たる人たち=2005年4月25日午前10時38分、兵庫県尼崎市潮江4
事故現場から救出される女性(10時50分)=画像を一部加工しています
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事故現場から救出される女性(10時50分)=画像を一部加工しています
マンションに激突し、ひしゃげた車両=2005年4月25日午前11時37分、兵庫県尼崎市潮江4
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マンションに激突し、ひしゃげた車両=2005年4月25日午前11時37分、兵庫県尼崎市潮江4
懸命の救助作業が進む事故現場=2005年4月25日午前11時50分、兵庫県尼崎市潮江4
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懸命の救助作業が進む事故現場=2005年4月25日午前11時50分、兵庫県尼崎市潮江4

 乗客106人と運転士が死亡し、493人が重軽傷(神戸地検調べ)を負った尼崎JR脱線事故から、25日で丸17年となる。神戸新聞社では当時、前方車両に乗り合わせ、九死に一生を得た負傷者らに取材し、事故の瞬間や救助の状況などについて貴重な証言を聞いた。未曽有の惨事に思いをはせる節目の日を前に、事故の状況を振り返りたい。(年齢、職業、住所はいずれも事故当時)

■脱線、激突

 JR宝塚線伊丹駅を約1分20秒遅れで発車した宝塚発同志社前行き快速電車は、時速110キロを超える速度で、現場のカーブに迫っていた。

 兵庫県宝塚市の女性(32)は、母と叔母とともに、親類を訪ねる途中だった。母と叔母が犠牲になるとは、想像もできなかった。

 「脱線の瞬間、最初に叔母がぐらついて、母が叔母の手を取って…。2人の手に向けて私が左手を差し出したときが、2人を見た最後でした」。その後、意識を失った。

 宝塚市の大学生の男性(20)はカーブの手前でスピードが速いと感じ、両手でつり革を持った。しかし、「体が前方にもっていかれた。前に座っていた人が飛んで、自分の荷物が飛ばされ、僕もつり革を離した」。

 1両目は左に傾いた。

 伊丹市の男子大学生(18)は片手でつり革を持ち、目の前に迫ってきた窓ガラスにもう一方の手をついた。外に見えたのは、地面だった。

 西宮市のアルバイト女性(32)は座っていた。床が徐々に上がってきたのを覚えている。自分の座席が、車両の下側になった。「立っていた人たちが降ってきた。恐ろしさで、声も出なかった」

 轟音(ごうおん)をとどろかせ、電車は線路脇のマンションに激突した。1両目は地下駐車場に突っ込んだ。2両目は大破し外壁にへばりついた。

 三田市の会社員男性(42)は振り返る。「車内は、モノと人が激しく混ぜ合わされたような状態。顔面から水に飛びこんだときに似ていた。無数の泡が目に入り、何が何だかわからないのと同じ感じ」

 西宮市の女子大学生(21)は「いろんなところにぶつかった。洗濯機の中でかき回されているような感じだった」という。

 西宮市の会社員男性(35)も語った。「空の卵のパックを手で押しつぶすときのように簡単に、車体はメリ、メリ、メリとつぶれていった」

■生と死

 事故後の1両目の車内。暗かった。突っ込んだ駐車場の車から漏れ出たガソリンと、金属が焦げたようなにおいが漂っていた。

 「電車が止まった瞬間、上から人がボトッ、ボトッと落ちてきた。前の方は、駐車場の鉄柱など、がれきの山だった。後ろの方は空間があった」

 宝塚市の会社役員男性(67)の証言だ。

 西宮市の女子大学生(21)は隣にいた親友の名前を呼んだ。しかし、返事は無かった。女性は、ガラスで足などに大けがをし、親友と自身の死を覚悟した。「すぐそばの男性は、目を閉じたままガタガタと震えていた」という。

 2両目も、凄惨(せいさん)だった。

 猪名川町の調理師男性(25)は、1メートル四方ほどしかない空間の中で意識を取り戻した。「足元には乗客が重なり合っていた」。血まみれの顔が見えた。

 宝塚市の会社員男性(25)は、血を流しながら泣く子どもの姿を忘れられない。

 大阪府の無職女性(26)はあおむけの状態だった。目の前には、若い男性の後頭部があった。男性はしばらく動いていたが、やがて止まった。「力が抜けたような感じで、亡くなった」

 伊丹市の男子大学生(20)は両足を乗客の体に挟まれ、激痛に襲われていた。救助のロープが車内に垂れ下がると、自分の上に乗った意識不明の乗客に結び付け、引き上げてもらった。同世代の人もいた。「ごめんな、ごめんな」。泣きながら、ロープを結び付けた。

 脱出は、少しずつだが進んでいた。

 男子大学生(18)がいた場所には光が差し込み、車両上部から白いフェンスが垂れていた。そのフェンスを伝い、何人かと一緒に外に出た。

 宝塚市の会社役員男性(67)もその一人。「(フェンスは)地獄に下がってきたクモの糸のようだった」と例えた。

 伊丹市の男性(31)は薄れた意識の中で、体を引っ張られたり、名前を呼ばれたりした記憶がある。「気付いたときには、外に運び出されていた」。目を開け、最初に見えたのは快晴の空だった。

 伊丹市の男子大学生(18)は、まだ、閉じ込められていた。事故直後から十人以上が「痛い」「苦しい」というのを聞いたが、その声のほとんどは聞こえなくなっていた。

 大学生が救助隊に発見されたとき、生きていたのは大学生ら4人だけだった。大学生は事故から18時間後に救助された。その瞬間、意識を失った。

 さらに4時間後。

 別の伊丹市の男子大学生(19)が、最後の生存者として助け出された。(2006年4月23日掲載)

■周囲の声消え「僕も死ぬんや」

 最後に救出された伊丹市の男子大学生(19)は1両目の運転席の真後ろに乗っていた。電車が塚口駅を通過し、名神高速道路をくぐった辺りで、異変を感じた。

 「体が浮き、目の前の景色が徐々に傾いて地面に近づいていった」

 脱線。本能的に手すりにしがみついていた。強い衝撃で意識を失った。

 気が付くと、体の上に何人もの乗客が折り重なっていた。首と右手だけが動かせた。滴る液体に触れると手のひらが真っ赤に染まる。血だった。

 懸命の救出作業が続いていた。だが鉄くずのようにひしゃげた1両目の救助活動は難航した。

 昼すぎ、目の前にあった携帯電話で父と母に連絡が取れた。でも状況を伝えるのが精いっぱい。やがて充電が切れた。

 「痛い」「助けて」。周りで訴える声がだんだん小さくなった。「僕も死ぬんや」。ぼんやりそんなことを考えた。

 夕方。救助隊員が大学生らを見つけた。正座したような状態で、その上に手すりなどが倒れて押さえ付けていた。

 ガソリン臭がし、火花が散る機材は使えない。「頑張りや」。隊員や医師が手を握った。水を飲ませ、点滴をした。「もう無理です」と漏らす大学生に、「何を言うてるんや」と怒鳴った。

 意識が遠のくたび、手をぎゅっと握られた。希望と絶望を行ったり来たりする。「自分の身を危険にさらしてまで、助けてくれる人がいる」。その思いが力をくれた。

 翌26日午前7時7分。周囲の鉄パイプが取り除かれ、大学生の体がすっぽり抜けた。「1名救出!」。救助隊員が叫んだ。事故から約22時間がたっていた。(2008年4月3日掲載)

■時速115キロでカーブに進入

 事故を起こした快速列車は、2005年4月25日午前9時18分52秒、時速約115キロで、曲線(カーブ)に進入。1、2両目が脱線転覆して線路脇のマンションに激突し、3~5両目も脱線した。乗客106人が死亡し、493人が負傷した。

 快速列車が、曲線での列車の転覆限界速度(列車が曲線を通過する際、遠心力で転覆を開始する速度)の時速約105~110キロを上回り曲線に進入したことが、事故の直接原因。(2010年12月21日、神戸地裁初公判での検察官の冒頭陳述から)

【特集】尼崎JR脱線事故

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