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須磨寺の参道に開設された島田叡を追悼する「島守の広場」開所を喜ぶ嘉数昇明元沖縄県副知事(右)と開設に尽力した小池弘三・須磨寺貫主=神戸市須磨区須磨寺町2
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須磨寺の参道に開設された島田叡を追悼する「島守の広場」開所を喜ぶ嘉数昇明元沖縄県副知事(右)と開設に尽力した小池弘三・須磨寺貫主=神戸市須磨区須磨寺町2
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島田叡
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島田叡

 芝生が敷き詰められた広場の花壇に、沖縄から届いた琉球寒緋桜(りゅうきゅうかんひざくら)が植樹された。太平洋戦争末期の沖縄県官選知事・島田叡(あきら)を顕彰する「島守の広場」。4月、故郷の神戸・須磨に完成した。20万人以上が犠牲になった地上戦で、住民に「生きろ」と訴えた信念を今に伝える。開所式には沖縄からも嘉数昇明(かかずのりあき)・元副知事(79)が駆けつけた。「悲惨な戦史を兵庫で語り継いでくれている。絆を大切にしたい」と感無量の様子だった。(津谷治英)

 島田は1901年、開業医の長男として生まれた。自宅は須磨寺の近くにあった。

 西須磨尋常高等小学校(現西須磨小)、神戸二中(現兵庫高校)を経て東京帝国大(現東京大)に進学。卒業後は旧内務省に入り、45年1月、沖縄へ赴任した。既に戦局は悪化し、軍は地上戦に引き込む持久戦の方針を固めていた。住民が巻き込まれることが想定された。

 島田は軍と県民との板挟みだった。それでも生命保護を優先し、疎開と食糧調達の二本柱で戦時行政を進めた。制空、制海権のない中を台湾へ飛び、米450トンを調達した。

 捨て身の行動は兵庫、沖縄の両県で語り継がれた。母校の兵庫高校(神戸市長田区)は64年に慰霊する「合掌(がっしょう)の碑」を建立。兵庫県は沖縄が本土復帰した72年に友愛県提携を結び、若者の交流を続けながら島田をしのんできた。

 沖縄県の動きはもっと早かった。51年、同県糸満市摩文仁(まぶに)に島田ら県職員を追悼する「島守の塔」を建立している。嘉数元副知事は「戦後間もないころで、生活復興も進んでいない時期。県民はまず島田さんへの感謝の思いを示した」

 嘉数さんは那覇市で生まれた。大分県に疎開して戦火は免れたが、戦後、帰郷すると、街一面が焼け野原だった。自宅前に大きな砲弾跡があったことを記憶している。

 苦しい時代、元県職員らから島田のことを聞いた。前任の知事ら東京の官吏が戦火を避けて沖縄を離れる中、最後まで島に残り運命を共にした。戦後の県民の処遇も気にかけながら殉職した。「最後まで見捨てなかった人」の印象を強くした。

 嘉数さんは国際基督教大に進学するが、米国政府発行のパスポートがなければ「日本」に行けなかった。島では米軍絡みの事件が絶えなかった。米兵の事故がきっかけのコザ騒動(70年)、米兵の少女暴行(95年)、沖縄国際大に普天間飛行場のヘリ墜落(2004年)。日米地位協定の厚い壁が真相究明を妨げた。「こんな理不尽をいつまで許すのか」と痛感した。

 その思いを胸に県議を4期務め、自民党県連会長も歴任。04年から2年間、副知事を務め、沖縄の苦境を政府に訴え続けた。

 溝は容易に埋まらない。「小さな島に基地が集中する現状は変わらない。本土に復帰して50年だが、新型コロナウイルスが米兵から広まり、今も県民を苦しめている」

 世界では戦火も絶えない。ロシアのウクライナ侵攻では沖縄同様、住民が犠牲に。「世界の政治家は歴史から何も学んでいない」と訴える。

 暗いニュースが流れる中、須磨の「島守の広場」完成に望みを託す。「島田さんが結んだ両県の縁を感じる」と喜ぶ。南国産の琉球寒緋桜はその象徴。1月から2月にかけて咲く。島田が着任した季節でもある。

 「沖縄戦を知ることは、戦争の愚かさを学ぶ機会になる。この広場で島田さんをしのび、平和の重さをかみしめてほしい」

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