尼学周辺の桜並木は、つぼみが膨らみ始めていた。
3月29日午前6時半。瑛太は段ボールにバスタオルなどを詰め込み、最後の荷造りをしていた。山口県の大学に進学するため、約1時間後には尼学を旅立つ。物がなくなった瑛太の部屋は、がらんとしていた。
高校1年の春、弟と一緒に尼学に来た。「あのまま家にいたら、追い詰められて死んでいたかもしれない」。そう言っていた。大学進学を目指して部活をあきらめ、学費を稼ぐため、ガソリンスタンドなどでバイトに励んだ。返済不要の奨学金も手にし、道を切り開いた。
「眠いわ」。荷造りを終えた瑛太がはにかんだ。スマートフォンを昨日買ったばかりで、深夜まで触っていたという。
ユニットのメンバーも、眠い目をこすりながら起きてくる。みんな春休み。「瑛太が出る日だから」と、早起きした。テーブルを囲み、朝食を食べる。特別な会話はない。いつもと同じ光景だった。
午前7時過ぎ、玄関に職員やほかのユニットの子どもたちが集まった。「何かあいさつしたら」と促され、瑛太が照れ笑いする。
「弟をよろしく。頑張ってきます」。短く言い残し、尼学を後にした。
無人駅のJR道場駅。大きなボストンバッグを持った瑛太が、ホームで電車を待つ。ここから毎朝、高校へ通った。「不安もあるけど、楽しみ。それが一番」。凜(りん)とした姿だった。
7時33分。通勤客に交じり、電車に乗り込む。ドア越しに手を振る瑛太。ゆっくりと動きだした電車が、朝がすみに吸い込まれていった。
駅前には桜の木。ここだけ、満開に近い花が咲いていた。(文中仮名)
2018/5/5