私の戦争 戦後75年
1945(昭和20)年8月6日、広島に世界で初めて原爆が投下され、同9日には長崎にも落とされた。一瞬にしてまちは壊滅。計約21万人が亡くなったとされ、生き残った人たちも原爆症に苦しんだ。連載「私の戦争 戦後75年」は原爆編として、現在は東播地域で暮らす被爆者5人の体験を紹介する。
■爆心から2・8キロ 伏せた体襲う熱風
広島は、地獄のようでした。
被爆し、顔も体も赤黒く腫れた人たち。体から垂れ下がっているのは、剝がれた皮膚なのか、破れた衣服なのかも分からない。体に触れると痛いんでしょう。手を前にぶら下げて指を開き、脇を開いています。兵舎として使っていた校舎に、続々と押し掛けてきました。
8月6日、私は陸軍の広島第二総軍司令部に所属し、爆心地から2・8キロ西の国民学校にいました。
朝から、じりじりと暑い日でした。雲一つない空に、旋回する米軍機が見え、茶褐色の物体をつり下げたパラシュートを落としました。何だろう、おかしいなと思ったら、突然の強烈な光。音が一瞬なくなり、とっさに伏せた体に熱風が走りました。何が起こったのか、分からなくなりました。
地鳴りが静まり、巨大なきのこ雲と、虹のような火炎が上がっているのが見えました。
校舎にやって来る被爆者は、「兵隊さん、水をください」と求めてきます。私は実家が薬店だったので、とっさにやけどにはラード(油脂)だと思い付き、食糧倉庫から取り出して手当てしました。
肌に塗ると、トマトの皮のようにずるっとむけます。傷口にラードを押し込みました。何十人も手当てする途中で、目が見えにくくなって手でこすると、血がべっとり。私自身の頭のけがに初めて気が付き、自分でラードを塗りました。
きのこ雲は北西に棚引き、後に黒い雨を降らせた薄黒い雲に変わりました。
◇
暗くなってにぎり飯が配られ、近くの人たちと分けました。倉庫から「お母さん、痛いよ」と泣き声が聞こえ、女学生らしい3人がいたので、「安心して寝なさい」と声を掛けました。翌朝、1人は亡くなっていました。
残る2人は目をけがしていたのか、ハンカチで目やにを拭いてあげると、わずかに瞳が見えました。「兵隊さんの顔が見える」と喜んでくれました。
7日午後になって、市街地に行きました。荒れ果てた平たい大地となり、市電も鉄枠の骨組みだけの残骸です。川には無数の死体が浮き沈みしていました。練兵場では火葬が始まり、異臭とやけどの悪臭が混ざり、とても食事は喉を通りませんでした。
◇
終戦直後、(後の)神戸医大病院で医師をしていた義兄を訪ね、検査を受けると、白血球や赤血球などが異常値と診断されました。実家の鹿児島で療養を続け、脊髄の神経痛もありましたが、一命をつなぎ留めることができました。
終戦5年後、神戸に移住して働きました。長い間、誰にも被爆体験は話しませんでしたが、伝えないと、もっと恐ろしいことが起きると思い、加古川市原爆被爆者の会を設立しました。
戦争は、勝っても負けても民間人が傷を受ける。被爆してやけどした人は苦しかったやろうと思います。残った人も惨めで大変な思いをする。若い頃は軍国主義者でしたが、今は絶対に戦争反対です。(聞き手・若林幹夫)
【広島の原爆被害】1945年8月6日午前8時15分、米爆撃機エノラ・ゲイが原爆を投下し、上空約600メートルで爆発。爆心地周辺の地表面の温度は3千~4千度に達し、人や建物を焼き尽くした。被爆後に入市した人にも吐き気や頭痛などの症状が現れ、大勢が亡くなった。計約14万人が死亡したとされるが、正確な数字は分かっていない。
【さがら・かつさぶろう】1923(大正12)年、鹿児島市生まれ。鹿児島実業学校(現鹿児島実業高)を経て、陸軍の関東軍に技術者として就職。戦後は神戸市の船舶エンジンメーカーで働いた。82年に加古川市に移り住み、同市原爆被爆者の会設立に携わった。
2020/8/6
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