私の戦争 戦後75年
おなかをすかせて泣いている子がいる。小さな赤ちゃん。あれは勝(まさる)だ。ご飯を食べさせないと-。加武三代子(かぶみよこ)さん(103)は高砂市の特別養護老人ホームの部屋で目を覚まし、夢だったことに気付く。太平洋戦争の激戦地だったフィリピン・ミンダナオ島のダバオ。75年前の夏、逃げ込んだジャングルで餓死し、亡きがらを現地に残した次男勝ちゃん=当時1歳4カ月=のことを、三代子さんは今も思い出す。米軍や抗日ゲリラにおびえ、死と隣り合わせだった日々。壮絶な体験を聞くため、施設を訪ねた。
緑と黒の柄入りシャツを着た三代子さんは、施設の職員が押す車いすに乗って、ロビーに現れた。小柄で温厚そうなおばあちゃん。それが第一印象だった。
「フィリピンで家におる時は、隣の家の赤ちゃんにあげるくらい母乳が出たんですよ。だから、ジャングルに逃げて母乳が出なくなるなんて、夢にも思わなかったんです」
新型コロナウイルスの感染防止のため、机に透明のついたてを立てていることもあり、か細い声は聞き取りづらい。取材に同席した四女の北越アヤ子さん(73)=姫路市=に時々、話した内容を教えてもらった。
「親も食べる物がない。母乳が出なくなると、勝は飲む物がなくなった。どうしようもなかったです」
三代子さんは、淡々と回想する。
「勝を抱いて寝とったら、朝起きたら亡くなってました。鼻から一筋の血を流していました」。ほとんど表情を変えずに、話した。
◇
三代子さんは1917(大正6)年、島根県鍋山村(現雲南市)に生まれた。36(昭和11)年5月、ミンダナオ島に入植していた14歳年上の喜三郎さんと、19歳で結婚する。
喜三郎さんは伴侶を探すために一時帰国しており、三代子さんは仲人に「フィリピンに行けば、鶏がなんぼでもおりますけん」と薦められたという。初めて喜三郎さんと顔を合わせたのは、結婚式の時だった。
「主人の兄と父もいて、男3人のどれが私の婿さんか分からんかった」と笑って振り返る。
3カ月後にフィリピンへ。夫は26(大正15)年から移住しており、ダバオ近郊のトマヨンで、船のロープなどの原料となるアバカ(マニラ麻)栽培を軌道に乗せていた。
果実や野菜が豊富に実り、現地の人を雇うなど、豊かな生活。37(昭和12)年に長女ミドリが生まれ、翌38(同13)年に次女英子(ひでこ)、さらに39(同14)年に長男茂(しげる)と、子宝に恵まれた。
ダバオで暮らす日本人はアバカの輸出で富を得て、2万人に迫っていた。東南アジアで最大の日本人社会が築かれ、中国東北部の「満州国」になぞらえて「ダバオ国」と呼ばれるほどだった。
その頃のフィリピンは、米国の植民地だった。46(同21)年に独立することを約束され、その準備政府が発足していた。
広大な土地を手に入れ、財を成した日本人は、フィリピン人の反感を買っていた。41(同16)年12月の日本軍による真珠湾攻撃で、それは敵意となり、在留日本人に降り注いでいく。
三代子さんら家族も、国家間の憎悪の連鎖に巻き込まれていくことになる。(斉藤正志)
■
戦争を知る人たちに話を聞く連載「私の戦争」。今回は、加武三代子さんや家族への取材、本人の手記などを基に、当時の体験をたどります。
【フィリピン戦線】日本は1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃の直後、米国統治下のフィリピンを空襲。翌42(同17)年に全土を占領した。44(同19)年から戦局は悪化。45(同20)年には米軍の攻撃を受け、日本兵と在留日本人はジャングルに敗走した。爆撃や飢え、病気、抗日ゲリラの攻撃で大勢が亡くなった。フィリピンでの戦没者は約51万8千人に上り、ミンダナオ島の山中では数千人の民間人が犠牲になったとされる。
2020/10/6
<総集編>体験者取材の厳しさ実感 平均年齢90歳、17人を紹介 記憶薄れ 記事化を断念も2021/2/4
田中唯介さん(94)高砂市 抑留生活、死ぬよりつらかった2020/6/18
堀本秀治さん(98)稲美町 沈むのが分かっとる作戦。何で2020/6/27
久保孝雄さん(93)加古川市 撃墜され脱出、死んでたまるか2020/7/12
藤田きみゑさん(100)稲美町 片足ない赤子 腕の中で死んだ2020/7/25
吉田清さん(99)加古川市 厳寒の占守島 命懸けの見張り2020/7/29
<原爆編(1)広島>相良勝三郎さん(97)加古川市 鼻突く異臭、川に無数の死体2020/8/6
<原爆編(2)広島>狩野重治さん(92)加古川市 母と再会 抱き合って泣いた2020/8/7
<原爆編(3)広島>千田征男さん(75)高砂市 母けいれん死ぬまで続いた2020/8/8
<原爆編(4)長崎>福田昭二さん(79)加古川市 防空壕内の光景 地獄でした2020/8/9
<原爆編(5)長崎>山口敏哉さん(79)加古川市 大やけどの叔父 尽くす手なく2020/8/10
西田光衛さん(90)高砂市 世の中が大人が180度変わった2020/8/15
藤本利夫さん(91)加古川市 避難した妹、帰ってこなかった2020/9/23
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(1)追憶 母乳出ず、1歳の勝は餓死した2020/10/6
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(2)トマヨン 平穏な生活、日米開戦で一変2020/10/7
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(3)監禁 命の危険、日本軍の戦車が救出2020/10/8
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(4)帰還 ゲリラにおびえる日々は続く2020/10/10
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(5)米軍上陸 空襲を避け防空壕で生活2020/10/11
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(6)逃避行 闇夜、子どもの手を引いた2020/10/13
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(7)死臭 息絶えた兵隊、裸で転がっていた2020/10/14
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(8)勝の死 腕の中で、冷たくなっていた2020/10/15
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(9)終戦 勝を思い、声を上げて泣いた2020/10/16
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(10)引き揚げ 波の音、勝の泣き声に聞こえた2020/10/18
<わが子を残して フィリピン 加武三代子さんの記憶>(11)故国 貧しい生活 靴も買ってやれず2020/10/19









