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私の戦争 戦後75年

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多くの人が紙面で戦争体験を語ってくれた=加古川市内(撮影・笠原次郎)
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多くの人が紙面で戦争体験を語ってくれた=加古川市内(撮影・笠原次郎)

 戦争体験者から直接、話を聞くことができる最後の世代-。現代に生きる私たちは、こう言われて久しい。神戸新聞東播版では、2020年6~12月に不定期連載「私の戦争-戦後75年」(計28回)を掲載し、平均年齢90歳の17人を取り上げた。高齢で記憶がおぼろげになっているなど、体験者からの聞き取りは、深刻なほどに厳しさを増していることを改めて実感した。取材過程の一端を紹介したい。

 ■手掛かり

 「去年(2019年)の10月に亡くなりました」

 昨年夏、フィリピン・マニラの激戦を生き延びた元陸軍兵の男性宅=兵庫県稲美町=に電話した時、遺族に伝えられた。

 戦争体験者を探すため、さまざまな方法を使った。その一つが残された手記を基に、連絡先を調べることだった。手記集を図書館で見つけ、編集した団体に取材できそうな人を聞いて電話したが、「もう少し早ければ」と悔やんだことが何度もあった。

 困難だった分、貴重な話を聞けた時の喜びは、ひとしおだった。

 2020年6月、兵庫県立図書館(明石市)で、千島列島北東端の占守島(シュムシュ島、現ロシア領)での過酷な体験をつづった手記を見つけた。加古川市の吉田清さんが2012年に著し、略歴には大正10(1921)年生まれと書いてある。2020年時点で計算すると、99歳。

 「健在ではないかもしれない」。そう思いながら、出版社に電話してみると、長女につないでくれた。

 長女は「加古川市の特別養護老人ホームで暮らしている」と教えてくれた。新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いていた20年7月、よく換気された部屋で会うことができた時は、感動に震えた。

  ■「もっと聞いておけば」

 話を聞くところまでたどり着きながら、記事にするのを断念せざるを得ないこともあった。

 同県稲美町の森玉勝文さん(95)は、2011年に発行された手記集で、特攻機を援護する部隊の隊員だった経験を記していた。

 1945(昭和20)年、翌日午前4時の出撃命令が下った夜、両親への遺書をしたため、遺品を整理。眠れない夜を過ごしたが、豪雨で直前に出撃が中止になったことを書いていた。

 死を覚悟した当時の心境を、聞きたいと思った。

 家族に連絡し、森玉さんに会うことができた。耳が聞こえづらくなっており、筆談での取材だった。

 森玉さんは曖昧な答えが多かった。同席した家族に、かつて話していた内容と違っていると指摘されることもあった。家族は「認知症で記憶がおぼろげになっている」と教えてくれた。

 森玉さんは次第に疲れてまぶたが重くなり、取材は約2時間で切り上げた。手記に残していた経験を聞くことはできなかった。家族は「もっとちゃんと聞いて、書き残しておけば良かった」と話した。

 ■「伝えたい」

 高齢で体力が落ちても、懸命に話そうとしてくれる人の取材は、背筋が伸びる思いだった。

 加古川市平岡町土山の相良(さがら)勝三郎さん(97)は、1945年8月6日、広島市で被爆した。普段は自宅で横になっていることが多いというが、取材には快く応じてくれた。

 「天気はよく晴れていた」「旋回するB29が、何か落としたのが見えた」

 陸軍兵だった当時の記憶は、薄れていなかった。

 それでも30分ほどたつと、疲れからか押し黙ることが多くなった。こちらが分かりにくかった部分を尋ねると、米爆撃機B29の旋回を見た場面を振り返ることが、何度か繰り返された。

 負傷者にラード(油脂)を塗り込んで手当てをしたことを話していた時、途中で言葉が出なくなった。過去に講演に同行したことのある相良さんの妻が、「手当てした女学生が喜んでくれたんだよね」と声を掛けると、思い出したように話を再開した。

 相良さんは2002年に加古川市原爆被爆者の会を設立。会長を務め、市内の学校などで体験を子どもたちに語ってきた。講演原稿を書いたノート3冊や手記には、詳細に被爆した当時の様子などがつづられ、相良さんから借りて記事執筆の参考にした。

 1冊のノートの最後には、こう書かれていた。

 「私達(たち)の残り少ない年月を、核兵器の無い平和な日本と世界であることを念願し、平和への道しるべとして頑張りたいと考えます」

 相良さんの「伝えたい」という強い思いがにじんでいた。記者として叱咤(しった)されているように感じた。

 ■「70年以上たっても…」

 連載には、100歳以上の女性2人も登場した。

 従軍看護婦だった藤田きみゑさん(100)=同県稲美町=は、その一人。2020年6月、自宅に行くと、藤田さん自ら玄関で出迎えてくれた。同居する家族によると、近くの田畑のあぜ道で花を摘むなど、よく散歩に出掛けているという。耳は少し聞こえづらそうだったが、受け答えには困らなかった。

 藤田さんは戦中、軍国熱に浮かされていた。看護学校を卒業後、メスで親指を切って血判を押し、陸軍司令部に「国のお役に立ちたい」と手紙を出したことを教えてくれた。

 淡々と話していた藤田さんの口調が変わったのは、1944(昭和19)年に中国・広東省の陸軍病院で起きた出来事を語った時だった。空襲で片足を失った赤子が、腕の中で息を引き取ったことを話すと、泣きそうに顔をゆがめた。

 「70年以上たっても、忘れることができません」と語気を強めた。

 ■「また失敗すればいい」

 今回の連載で最高齢だった加武(かぶ)三代子さん(103)については、「わが子を残して」と題して、フィリピンで当時1歳の次男を亡くした体験を12回にわたって紹介。他の人の記事は本人が語る形だったが、加武さんの体験は、物語風に展開する特別編とした。

 加武さんは、当時の出来事をノート57枚にわたって詳細に記しており、姫路市に住む四女にコピーを借りることができた。

 太平洋戦争が始まるまでの幸せだった生活、米軍上陸後のジャングルへの逃避行、次男の餓死…。古い仮名遣いで、タガログ語も交えた手書きの文章は、読みづらい部分もあったが、一晩で一気に読み終えた。

 加武さんは終戦で4カ月ぶりにジャングルを出て、日光を浴びた。川のほとりでコーヒーを飲んだ時、張り詰めていた緊張が解け、次男の死を思って声を上げて泣いた。この場面を読んだ時は、涙腺が緩んだ。

 2020年7月、高砂市の特別養護老人ホームで、感染対策の間仕切り越しに、加武さんから話を聞くことができた。さらに手記を基に、家族に取材し、資料を探して史実と照らし合わせながら記事を書いた。

 最終回は、加武さんの若者への辛辣(しんらつ)な言葉で終えた。

 「若い人は、若い人の思う通りにやればいい。また戦争して、また失敗すればいい。今の人に戦争の話は無理ですよ」

 取材中に聞いた時は驚いた。しかし、時間がたつにつれ、加武さんなりのメッセージだったのだと思うようになった。戦争に警鐘を鳴らすどんな言葉よりも、心に響くと思って掲載した。

 ■生の言葉

 連載中には、うれしい知らせもあった。

 連載の第1回目で取り上げた高砂市の田中唯介さん(95)が2020年11月、シベリア抑留者支援・記録センター(東京)の「シベリア抑留記録・文化賞」の功労賞を受賞。アコーディオン演奏や歌声を通して、当時の過酷な体験を伝え続けていることが評価された。

 同16日には、同市の十輪寺で贈呈式と記念コンサートが開かれた。

 「こんな賞をもらえるとは思ってもみなかった。賞に恥じることのないように、生きている限り、真実を伝え続けたい」

 田中さんは90代とは思えないほど、はっきりとした口調で謝辞を述べた。そして、飢えや寒さ、重労働で、多くの戦友たちが犠牲になった過酷な抑留の実態を、アコーディオンで弾き語った。

 当時を知る人の生の言葉ほど、戦争の悲惨さを伝えるものはない。改めてそう感じた。

 今回の総集編掲載に当たり、田中さんに電話すると、受賞の記事が載った後、市内外から講演依頼が相次いでいることをうれしそうに教えてくれた。新型コロナが収束すれば、各地に赴く予定といい、「800人以上いた同じ部隊の戦友のうち、生きているのは私を含め3人だけ。亡き戦友たちのためにも、歌い続けたい」と話した。

     ◇

 連載では毎回、戦争体験募集の告知を紙面に載せ、多くの人が手紙やメールを寄せてくれた。

 全てを取材することはできなかったが、今後、別の記事で紹介できればと思っている。

 戦争の記事を書くに当たって、いつも思い出すのは評論家の内橋克人さん(88)の言葉だ。神戸空襲を体験した内橋さんは、戦後60年を迎えた2005年8月、神戸市での講演でこう話した。

 「『敗戦60年』はあっても、果たして『敗戦70年』はあるか」

 戦争体験者が少なくなる中、社会は関心を持ち続けられるのか、疑問を呈した。その上で、「70年に向けて、今日からまた再び歩き出さなければなりません」と呼び掛けた。

 戦後75年だった2020年は、8月を中心に多くの報道が新聞やテレビ、インターネットで流れた。

 また新たな戦後の年がやってくる。内橋さんの言葉を借りれば、また歩き出さなければならないと思っている。

 私たちが生きるいまが、「戦前」ではなく、今年も、来年も、ずっと「戦後」であり続けられるように、これからも取材していきたい。(斉藤正志、若林幹夫、門田晋一、千葉翔大)

2021/2/4
 

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