1939年、100万を超えた神戸の人口は敗戦時、約38万に激減していた。戦前から戦時下、そして敗戦後。市民の生活から消えた日常や平穏。市の発行物から見えてくる当時に目をこらしたい。(長嶺麻子)
戦前の神戸。六甲山はスケート場や国内初のゴルフ場が造られ、当時最先端のリゾート地だった。昭和初期に営業を始めた摩耶観光ホテルは、その威容から別名「山の軍艦ホテル」。旧居留地には英字の看板を掲げた商館や銀行が並んだ。
日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年、神戸は「第1回みなとの祭」に沸いた年だった。
翌34年に市に観光課が新設。再度山ドライブウエーの完成(35年)、市内遊覧の観光バス運行(36年)と話題が続く。観光課の写真付き月刊冊子「カウベ」からは、須磨海岸の海水浴や新開地でのダンスなど、余暇のある暮らしがうかがえる。
38年1月の「新春特輯號(とくしゅうごう)」では「神戸一泊の旅」と題する記事がある。抜粋すると、こんなコースだ。
鈴蘭灯の元町通を抜け、向かうは新開地のネオン街。翌朝は湊川神社を参拝し、ケーブルで摩耶山の展望台へ。布引の滝を見物した後は、山陽電車に揺られ須磨浦公園の観光ハウスを目指す。
映画やスポーツなど、「カウベ」にはレジャー情報が満載だ。外国人を意識してか、初詣を英語で解説する記事もある。
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40年、日独伊三国同盟締結。翌41年1月号に、観光課長による一文が掲載された。
観光と言ふ言葉さへも變(か)へなければいけないと言ふ聲(こえ)も往々耳にする(中略)緊張に對(たい)する慰安と云(い)ふことは絶對(ぜったい)的である。
8月の「カウベ」に、ナチス・ドイツの体制下でのベルリン五輪のドキュメンタリー映画「民族の祭典」が紹介された。同時期、行政公報「神戸市公報」が、「神戸市民時報」と改題された。観光課は翌年、姿を消す。
神戸市民時報は定価1部3銭、年間1円。1424の町内会、2万7313の隣保で回覧を義務づけられたとされる。
創刊号で勝田銀次郎市長が「隣保団結、万民翼賛」の趣旨であいさつ文を寄せている。
この容易ならぬ難局を打破って進む上に、國家が隣保町内會(りんぽちょうないかい)の働きに期待する所は、極めて大なるものが有るのであります。
戦時体制へ市民の自発的協力を求める呼び掛けだった。
■この頃の出来事■
1933年 第1回みなとの祭開催
34年 大丸神戸店新店舗完成
35年 須磨浦公園開園
36年 三ノ宮駅に観光案内所新設
37年 三宮楽天地登場
日中戦争勃発
38年 阪神大水害
39年 森林植物園の造園開始
40年 再度山テント村無料開放
41年 三越百貨店に観光文化図書室
2015/8/13