「もはや戦後ではない」。終戦から11年の1956(昭和31)年の経済白書の副題は、この年の流行語にもなった。戦災復興に至るまで、神戸はどんな街だったのだろう。70年の夏、遠い日の記憶を尋ね歩いた。
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戦後、神戸や大阪など各地に闇市が出現した。食料が絶対的に不足していた当時、秩序通りの配給では生きていけない。統制価格を無視した品物が飛ぶように売れた。
神戸の闇市は終戦直後、中国人が揚げまんじゅうを売り出したのが最初とされる。1個5円と神戸市史は記す。
「闇市をはじめ、終戦時や占領下の神戸の歴史は不明な部分が多い」と語るのは、人と防災未来センターの震災資料専門員、村上しほりさん(28)。この分野を調べる数少ない研究者だ。
村上さんの博士論文によると、省線(現在のJR線)三ノ宮-神戸間の高架下、約2キロにわたりピーク時で約1500軒の屋台が並んだ。高架南側の通りと緑地帯を不法占拠のバラックが埋め尽くしたという。現在の県道神戸明石線あたりだ。
46年に兵庫県が実施した闇市の実態調査では、物資の入手経路は、産地への買い出しや、統制組合などからの横流れ品、生産工場の不正放出品、盗賊品など多岐にわたる。敗戦後の騒然とした世相がうかがえる。
闇市は「三宮自由市場」と名前を変えるが、全国的に闇市撲滅が叫ばれ、46年夏、国が取り締まりを強化。翌年2月にバラック群は撤去された。
その後も、高架下には店舗が密集した。47年12月時点で、その数は約1300。多くは古着屋や飲食店だった。
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当時を知る人を探して、高架下を歩いた。
元町高架下三番街にある衣料品店淡路屋。南平(おさむ)さん(81)の父が淡路島を離れ、48年ごろ高架下で衣料品の仲買を始めたのがルーツだ。
高校生のころ、南さんも店を手伝った。当時の高架下は闇市の空気を色濃く残し、統制品を売りさばく商売人があちこちにいた。
「シャッター代わりにつかっていた戸板を昼間は貸すんや。戸板の上にゴム長靴などを並べるんやけど、『取り締まりやー』と誰かが叫ぶと、商品をしまって一瞬で消えてしまうんや」
子どもなら怪しまれないと見込まれ、闇市に流れた統制品を買った客から、港まで運ぶよう頼まれることも頻繁にあった。
誰もが食うや食わずだったこの頃。高架下では、後にダイエーを創業する故中内功氏も薬の販売を営んでいた。(小尾絵生)
2015/8/30