夜のとばりが“シマ”を包む。時折、吹き寄せる秋風が静かに頬(ほお)をなでる。今月12日、白の襦袢(じゅばん)に黄と黒の袢纏(はんてん)、赤や紫の頭巾(ずきん)姿の若者数十人が、モスリン大橋近くの沖縄県人会兵庫県本部園田会館(尼崎市戸ノ内町5)に集まった。
午後7時。「ドーンドン」とパーランクー(太鼓)が響き、「ピューイピューイ」と指笛が鳴る。トラックのスピーカーから流れるテンポの速い音楽に合わせ、一糸乱れぬ勇壮な踊りを刻んでいく。
尼崎生まれの沖縄3世などがつくる舞踊グループ「琉鼓会」。毎年、旧盆近くのこの時期、沖縄の伝統芸能・エイサーを踊りながら地域をめぐる「道ジュネー」を繰り広げる。普段は静かなこの町が年に一度にぎやかになる日。尼崎市内外から人が集まり、戸ノ内のウチナーンチュ(沖縄の人)も、道ジュネーの後に続いたり、沿道からエールを送ったり。踊る者、見る者の心をかき立て、故郷への思いを一つにする。
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猪名川、神崎川の合流地点に位置し、三方を川で囲まれた「戸ノ内」。航空写真からは、まるで靴下のような形をした“シマ”に映る。この町に架かる三つの橋のいずれかを渡らなければ入れない。その一つ、大阪との府県境、神崎川に架かる「モスリン大橋」は、戦前~戦後、海を渡り、この町を目指したウチナーンチュたちの新天地への架け橋だった。
「ここに榕樹(ようじゅ)あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史」には、沖縄本島北部の本部村(現本部町)から出稼ぎに出てきた男性が大阪を経て、この中州の南先端部河川敷(現戸ノ内町4、5丁目)に移り住んだことが始まりとの記述がある。時期は1930年ごろ。その後、家族や親戚を頼り、移住者は増え、島から本土に渡ったウチナーンチュは、尼崎の“シマ”に根を広げていった。
橋の名に残るモスリンは、戦前に戸ノ内にあった巨大紡績工場「毛斯綸(もすりん)紡織」に由来する。戦中に軍需工場に変わり、空襲で焼失した。大阪、兵庫の境界、そして多くの移住者が住むこの町は、戦後、さまざまなものを受け入れてきた。「神崎新地」など遊郭街も現れ、盛り場としてもにぎわった。
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沿道で道ジュネーを見つめていた喫茶店「ロング」(戸ノ内町3)を営む玉城幸子(80)は、若者たちの熱い踊りに、自身の幼き頃を重ねていた。
戸ノ内に沖縄人集落ができはじめた頃、移住してきた両親の10番目の子として生まれた。沖縄芝居や民謡を周囲の大人に教えてもらい、民族衣装に身を包み、兄弟や近所の子どもたちと家々を回ったことを覚えている。
同時に河川敷で「炭焼き」を生業としていた両親の姿も忘れられない。(敬称略)
(石川 翠)
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祖国第3部は、アマ(尼崎)とシマ(沖縄)をつなぐウチナーンチュの記憶をたどる。
<メモ>尼崎に9支部
沖縄県人会の会員数 兵庫県本部には1344世帯、4019人(2015年4月現在)が登録。14支部のうち9支部が尼崎市内にあり、883世帯、2622人と全体の約7割を占める。神戸支部を除くと、残り4支部は宝塚、伊丹市など尼崎市に隣接した地域となる。入会後に転居した数や、非会員の出身者数は不明。
2015/9/29