謎めいた面接から1カ月ほどたった1944(昭和19)年8月中旬、井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=は、将校を養成する「陸軍騎兵学校」(現千葉県船橋市)の課程を終える。卒業後は見習士官として原隊に復帰するのが原則だったが、井登さんは違った。
「私の原隊は満州(現中国東北部)の佳木斯(チャムス)に駐屯していた第10師団の捜索連隊で、フィリピンに移るために朝鮮半島の釜山にいました。当然、合流するものだと思ってたんですけど、卒業式の朝に教官から『静岡県の二俣(現浜松市)にある東部33部隊に行け』と命じられて」
「何をやるんか分からないまま、鉄道を乗り継いで向かいました。東部33部隊は、陸軍中野学校の通称だったんですね。二俣分校は私らが1期生だったもんで、兵舎もまだ工事中でした。入っていいもんか迷っていたら、長髪の将校が近づいてきて『9月1日が入校だから、それまで家に帰っておけ』と言われました」
丸刈りが基本の陸軍で髪を伸ばした将校。突然の帰郷命令。実家の兵庫県上福田村(現加東市)に戻ってからも、井登さんの違和感は膨らみ続けた。
「原隊の連隊長から実家に電報が来たんですよ。『井登慧が復帰してこない。所在を知らせろ』いうて。びっくりしてね。参謀本部直轄の組織やから、原隊に連絡も入れずに勝手に人事を変えとったんやね」
9月1日。二俣分校には、歩兵や工兵、砲兵などさまざまな兵種の見習士官約230人が集合した。二つの班に分けられ、井登さんの第2班には、戦後30年近くフィリピンに潜伏した故小野田寛郎(ひろお)さんもいた。
「分校長から訓示がありました。秘密戦士いうんですかね。正規軍とは違って縁の下の力持ちになって戦うと。1人の力というものは秘密戦では大きな力を発揮するという、そんな趣旨やったと記憶してます」
「班の担当教官も長髪でした。中野学校の本校で諜報(ちょうほう)員の養成教育を受けていて、一般人に溶け込むために髪を伸ばしていたようです。その教官が、二俣の人口や産業を1人ずつ当てて尋ねていきました。誰も答えられません。教官は『こういうのを分かるようにならないといかん』と言いました」
「将校になるための厳しい訓練を受け、さあ実戦だと思ったらこれですから。私も含め、班の20人から30人くらいが集まって教官に直談判したんです。秘密戦やら人口や産業がどうやら言われても難しくて分からんと。早く第一線に送ってくれと。その場に小野田もいた記憶があります」
血気盛んな見習士官たちの直訴に教官は全く動じず、こう答えたという。「難しいと分かるだけでもおまえたちは優秀だ。ここで3カ月間、みっちり学べば絶対によくなる」
(小川 晶)
2016/8/15