後に「陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校」(現浜松市)で遊撃(ゲリラ)戦の幹部教育を受けることになる井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=は1922(大正11)年11月、兵庫県上福田村(現加東市)の農家に、4人きょうだいの末っ子として生まれた。
「上に兄が1人、姉が2人いました。3人の父は腸チフスで若くして死んで、母がその弟と再婚して私が生まれたんやね。昔の田舎ではそういうことがようあったそうで。明治生まれの兄には3人の子がいましたが、私が出征した後に召集されて戦死しました」
「実家には1町歩(約1ヘクタール)くらい田んぼがありました。農繁期なんかは、家族総出で作業しても間に合わないから、近所の人とも協力し合って」
「小学生の頃は、こま回しやペッタンいうてたメンコをしたり、自転車の車輪を棒で転がして走ったりしてました。農家には、稲穂を乾燥させたり脱穀したりするための場所が庭の一角にあるんですね。『門(かど)』いうて、そこがすいとるときは遊び場にしてました」
35(昭和10)年、5年制の旧制小野中学校(現県立小野高校)に進学する。
「軍事教練はきつかったですね。週に2回、2時間だったと思いますが、時間割に組み込まれていました。配属将校がおって、ぴしっとした格好で行進したり、銃を持って突撃したり。ちょっとでも気を抜いたら殴られましたね」
「部活は『排球部』いうてたバレーボール部に入りました。9人制で、中衛のライトです。今は屋内でやるスポーツですけど、当時は運動場でやってました。姫路中(現県立姫路西高)と龍野中(現県立龍野高)の3校でリーグ戦みたいなことやって楽しんどったわけです」
井登さんら34回生は計3学級。5年生になると、就職する「一種」(1学級)と、進学希望の「二種」(2学級)に分かれ、井登さんは二種に入った。
「当時の加藤さんちゅう校長が厳しい人でね。『小野中の合格率を神戸一中(現県立神戸高)のように上げるんだ』言うて張り切って。もともと英語の先生やったから、自ら放課後に補習をやるんですよ」
「先生になろう思って師範学校を目指しました。小学生の頃、熱心な先生に指導を受けましてね。裸になって懸垂して、どの筋肉がどう動くとか教えてくれたり、中学の受験勉強に暗くなるまで付き合ってくれたり。影響を受けましたね」
40(昭和15)年、井登さんは、兵庫県師範学校(現神戸大発達科学部)に進学。神戸大付属図書館大学文書史料室によると、同学校は36(昭和11)年に御影師範学校と姫路師範学校が統合して設立され、神戸市東灘区の赤塚山に新校舎が完成したばかりだった。
(小川 晶)
2016/8/19