連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

  • 印刷
陸軍中野学校二俣分校の1期生が1981年にまとめた「俣一戦史」(原書房)。体験談やかつての写真を掲載している 神戸新聞NEXT
拡大

陸軍中野学校二俣分校の1期生が1981年にまとめた「俣一戦史」(原書房)。体験談やかつての写真を掲載している

神戸新聞NEXT

  • 陸軍中野学校二俣分校の1期生が1981年にまとめた「俣一戦史」(原書房)。体験談やかつての写真を掲載している
  • 神戸新聞NEXT

陸軍中野学校二俣分校の1期生が1981年にまとめた「俣一戦史」(原書房)。体験談やかつての写真を掲載している 神戸新聞NEXT

陸軍中野学校二俣分校の1期生が1981年にまとめた「俣一戦史」(原書房)。体験談やかつての写真を掲載している

神戸新聞NEXT

  • 陸軍中野学校二俣分校の1期生が1981年にまとめた「俣一戦史」(原書房)。体験談やかつての写真を掲載している
  • 神戸新聞NEXT

 1974年3月にフィリピン・ルバング島から帰国した故小野田寛郎(ひろお)さんは一躍時の人となり、「陸軍中野学校」の存在にスポットが当たった。「中野は語らず」といわれ、戦後も沈黙を続けた出身者が、80年前後に書籍を相次いで発刊するきっかけになったという。中野学校の二俣(ふたまた)分校(現浜松市)で小野田さんの同期生だった井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=が、その歴史を振り返る。

 「中野学校の源流となる組織が東京にできたのは、38(昭和13)年です。九段の『後方勤務要員養成所』が中野に移って中野学校となり、参謀本部直轄の秘密組織と位置付けられました」

 「当初は諜報(ちょうほう)員、いわゆるスパイを養成する機関としての側面が強く、欧米に後れを取っていた情報戦を優位に進めようとした。それが、太平洋戦争の局面の悪化で様相が変わってきたんですね」

 二俣分校の1期生が著した「俣一(またいち)戦史」によると、分校開校の契機は43(昭和18)年2月、南太平洋のガダルカナル島撤退とされる。守勢に追い込まれた参謀本部が中野学校に遊撃(ゲリラ)戦の幹部教育を命じ、その専門機関として創設された。

 「日米で圧倒的な物量の差がありましたからね。弾を撃ち尽くしたら、最後は銃剣で突撃するだけでは持たんと。臨機応変に敵を攻撃したり、夜間に潜行して軍事施設を爆破したりする方法でないと対応できないという判断だったんでしょう」

 「二俣分校の開設は、その時点で参謀本部が古い戦法に見切りをつけた傍証といえると思うんですね。でも現実には、その後もフィリピン、硫黄島、沖縄などで『最後は突撃』という攻撃が繰り返された」

 出身者がまとめた900ページに及ぶ書籍「陸軍中野学校」によると、遊撃部隊は「正規軍隊の戦列外」と定義された。秘密戦の教育を受けた幹部らは、戦地に出ても独立して行動することが多く、正規軍は正規軍でこれまで通りの戦法を採り続けたという。

 「軍歌で『咲いた花なら散るのは覚悟』『死んで還(かえ)れと励まされ』と鼓舞して、『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ』という戦陣訓をたたき込んで。『死ぬな、生きろ』という二俣分校の教育方針を、もし正規軍にも広げていれば、戦死者は減っていたかもしれません」

 「ただ、できなかったでしょうね。軍隊の根本をひっくり返すことになりますから、統制が取れなくなっていたでしょう。でも、参謀本部が効果が薄いと気付いていた戦法が繰り返されて、亡くなった人がたくさんいるんですからね」

(小川 晶)

2016/8/17
 

天気(9月6日)

  • 33℃
  • 25℃
  • 10%

  • 34℃
  • 22℃
  • 10%

  • 35℃
  • 25℃
  • 10%

  • 36℃
  • 23℃
  • 10%

お知らせ