第10部 結う、結ぶ
兵庫県丹波市氷上町石生の「水分れ」は、本州で最も低い平地の中央分水界。この地に降った雨は、北は日本海南は瀬戸内海へと分れていく。標高100㍍の低さゆえ、生き物のみならず文化も南北に行き交う、交流の地であった。

…最(さい)っ低(てい)っ。
それが褒め言葉になる、不思議な場所をご存じか。
「水分(みわか)れ」という地名が兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)にある。険しい山々が背骨のように連なる日本列島で、ここはわずか標高100メートル前後。本州では最も低い、平地の「中央分水界」だ。
天から降り注いだ恵みの雨は、南と北へ泣き別れ。片や播磨の加古川へ、片や京都丹後の由良川へ注ぐ。瀬戸内側と日本海側を結び連なる低地帯は、まさしく兵庫県を象徴するようだ。
「氷上回廊」-。生物が行き来しやすい天然の切り通しを、地質学者の故藤田和夫・大阪市立大名誉教授はそう呼んだ。半世紀前、神戸新聞の企画「兵庫探検・自然編」に協力し、風土を学び、想を得たという。それまで「兵庫県の地形はあまり調べられておらず、注目されていなかった」。「兵庫の地理」を執筆した田中眞吾・神戸大名誉教授(87)はそう語る。
「加古川・由良川の道」を、考古学者の故佐原真・元国立歴史民俗博物館長が提唱したのも、同じころ。弥生時代の「銅剣形石剣」が、瀬戸内と日本海沿岸部をつなぐように両河川沿いに分布することを指摘し、文化の伝播(でんぱ)する道を浮かび上がらせた。
それから、さらに20年。加古川・由良川の河口から歩いて「水分れ」へ。南北交流を復活させるイベントを1991年、旧氷上町商工会青年部が、流域市町を巻き込んで実現させる。
古くからの交通の要衝で文化の結節点であることは「ホロンピアのころから、地元も知るようになった」と、当時実行委員長だった塚口正彦さん(61)。
88年、舞鶴自動車道(現舞鶴若狭自動車道)の開通を機に開催された「北摂・丹波の祭典ホロンピア」。それに合わせて建てられたのが「水分れ資料館」だ。
新しい道が未来を開くと同時に、過去へいざなう。
はるか昔、3万年前から氷上回廊を行き交っていた人々の姿を明らかにしたのは、舞鶴道の建設に伴う、ある遺跡の発掘だった。

丹波を2本の高速道路が走る。
摂津とつなぐ舞鶴若狭自動車道と但馬に通じる北近畿豊岡自動車道。二つが交わる春日インターチェンジ(IC)近くに七日市遺跡はある。
発掘担当者たちは首をかしげた。
遺跡は3万年前の旧石器時代から2千年前の弥生時代にぽんと飛ぶ。その大集落も古墳時代には縮小し、奈良時代には役所の跡となる。
「これ、氷上回廊と違うかという話になった」と兵庫県立考古博物館の山本誠学芸員(53)は振り返る。
旧石器時代はナウマンゾウの季節移動の道。たくさん見つかる大きな石斧(せきふ)は、待ち構えたゾウを仕留め、解体する集団の姿を呼び起こす。
弥生時代は物流の道。瀬戸内系のサヌカイト製石器が、南から北へのモノの動きを示し、竪穴住居の形の変化も播磨の影響を物語る。
流れは一方向でなく、弥生後期、「急激に日本海側の文化に変わる」と兵庫県まちづくり技術センターの多賀茂治課長(52)。石器から鉄器に切り替わると、物流ルートも北から南へと変化する。土器や墓の形も、丹波は日本海側の影響を受ける。
しかし、そうした地方色は「古墳時代には消えていく」と多賀さん。山陰道という官の道が東西を結び、中央の色に塗り替えられる。
文化の通う十字路が、時とともに多様な風土を織り成してきた。

祭りも、丹波篠山が京都系の鉾山(ほこやま)なのに対し、氷上は播磨の屋台だ。
「明らかに加古川の舟運やね」。民俗学者久下隆史さん(69)=篠山市=はそう話す。
氷上回廊の緩やかな川の流れに、舟運が開かれたのは約400年前。闘竜灘(加東市)から河口の高砂、次いで上流の丹波・本郷までが物流の大動脈となる。下りは丹波と播磨の年貢米、上りは塩や肥料の干鰯(ほしか)を積んで、高瀬舟が行き交った。
「丹波の立杭焼や豊岡の柳行李(やなぎごうり)も高砂の港へ送り出された」と県立考古博物館の松井良祐学芸員(60)。久下さんによると、その立杭焼の里・篠山市今田町では「祭りに播州のサバのなれずしを作った」という。
篠山のサバずしのイメージは京風といわれる棒ずしだが、幕末に篠山の城下町にあった「播州商人定宿」の記録を指さし、久下さんが言う。「魚屋がぎょうさんおるでしょ」。篠山の「鯖(さば)街道」は川の道にあったのかもしれない。
いや、若狭湾のサバも、加古川で運べたかも-。夢のような由良川との「通船計画」が持ち上がるのも、氷上回廊ならではだ。
狙いは、北前船の西回りルートの短縮にあった。丹後から大阪までは数日となり、冬の荒い日本海よりもずっと安全だと、何度もお上に計画が出されたが、幻に終わる。
明治に入ると闘竜灘が、生野鉱山の仏人技師ムーセらの検分を経て、開削される。しかし、江戸時代以上の活況もつかの間、阪鶴鉄道(現JR福知山線)や播州鉄道(同加古川線)の開通で、舟運は役割を終える。

それでも氷上回廊は生きている。絶滅危惧種のホトケドジョウ。県内は丹波市だけにおり、ここが西限。水系を越え、由良川にも加古川にもすんでいる特異な地形の証言者だ。北のヤマメと南のアマゴの混生や、絶滅したミナミトミヨなどもそう。六甲山にすむキベリハムシや、近畿南部のカンサイタンポポの北上も、回廊伝いとみられている。
方言からも道が見えてくる。
例えば、瀬戸物。大きく見れば、兵庫県の瀬戸内側は「セトモノ」で、日本海側は「カラツ(唐津)」。だが、甲南大の詳しい調査によると、丹波市では両者が入り交じる一方、篠山市にカラツはほとんどない。
「流通経路が北か南かをはっきり示し、ちょうど旧氷上郡(丹波市)が緩衝地帯になっている」と同大の都染(つぞめ)直也教授(60)は読み解く。
舞鶴若狭道の利用開始から32年。北近畿豊岡道と接続後の春日ICは利用が倍増し、1日1万台を超える。
道は、地域を結びつけているか。
交わりは広く、深まっているか。兵庫県が大きな回廊となれば、さらに多様な魅力が生まれはしないか。
今年5月、篠山市が丹波篠山市となる。名実ともに兵庫丹波が一つになって、五国を新たに結い結ぶ。
(記事・田中真治 写真・藤家武、大山伸一郎)

ローマ神話の双面神ヤヌスのように、南北の海に向き合う兵庫県。実は江戸中期、播磨の市川と但馬の円山川にも通船計画があった。商人だけでなく、大和郡山藩の重臣で文人画家の柳沢淇園(きえん)も「諸国之益、人民之為」と参画。松井良祐学芸員は「決して利益のみを追求したのではなかった」と評価するが、こちらも実現しなかった。
篠山川と武庫川は明治の初め、分水界を横切る異例の運河でつながった。通船は、わずか2年で廃止されたが、今も田松川として姿をとどめる。