第10部 結う、結ぶ
かつて、兵庫県朝来市の生野銀山と沿岸の姫路市を結んだ「銀の馬車道」。日本の近代化をけん引した鉱山の歴史ロマンは、県内のほかの鉱山跡でも脈々と受け継がれていた。

兵庫県朝来市の生野銀山から姫路市の飾磨津(現姫路港)へ、銀の精鉱を積んだ馬車が列をなす。てい鉄と車輪の音が、播但を貫く全長約49キロに及ぶ日本初の高速産業道路に響く-。
近代日本の黎明(れいめい)期。明治新政府の主導で建設された「生野鉱山寮馬車道」は、平成に入り、「銀の馬車道」の呼び名を得た。絶妙なネーミングとともに、想像力をかき立てるストーリーが加わり、2017年には日本遺産に認定された。
だが、実情は異なる。
銀の馬車道と言いながら、運ばれた銀の量は不明。銅の方が多かったとの説もある。輸送のメインは、採掘、製錬に必要な石炭や機械類で、飾磨津から生野銀山への往来がむしろ活発だったらしい。
ロマンとリアル。日本の近代化をけん引し、時とともに消えていった銀の道は、淡い追憶と夢想を秘めつつ、今なお兵庫の地に確かな足跡を残す。

薄く、点々と雪が覆う境内に、江戸期の山師の名が刻まれた石灯籠がたたずむ。拝殿の裏には、三菱の社章が入った屋根瓦が積み上がる。
1月8日、朝来市生野町口銀谷(くちがなや)の山神社(さんじんしゃ)で「年頭安全祈願祭」が始まった。三菱マテリアルなど関連企業の幹部がそろい、山田定信宮司(81)が祝詞を上げる。かつて銀山の繁栄と、働く人々の安全を願った儀式は、採掘を休止し、スズの製錬に事業が切り替わってからも、鉱山町の歴史を形あるものとして受け継いでいる。
円山川と市川の分水界でもある生野は、但馬と播磨を結ぶ街道沿いの宿場町として栄えた。江戸前期にまとめられた「銀山旧記」によれば、本格的な採掘が始まったのは戦国期とされる。「銀の出ること土砂のごとし」と例えられ、江戸中期には新潟・佐渡の金、島根・石見(いわみ)の銀と並び栄えたが、次第に衰退した。
生野と飾磨津(現姫路港)をつなぐ「銀の馬車道」が開通した明治初期は、年平均の産出量が1トンを切る「底」の時代だった。山田宮司は「新政府が生野の将来性を有望視していたのは確かだろうが、銀が出ないのに運べるわけがない。馬車道をPRするのはいいけど、ちょっと大げさちゃうか」と苦笑する。
1896(明治29)年に国から三菱に払い下げられると、先進技術によって産出量は回復。昭和期の年平均は10トンを超え、江戸期を上回ったが、徐々に採算が合わなくなり、1973(昭和48)年に休止した。
一方、製錬に使われた一部の建物は、三菱マテリアルの施設として今も現役だ。年1回の開放イベントには、歴史ファンが集まり、往時のロマンに浸る。
しかし、三菱が生野にとどまるのは、地元への恩義や愛着とは別に、理由がある。採掘による水質への影響は、閉山後も懸念が消えない。未来永劫(えいごう)、企業が存続する限り、社会的責任として管理し続けなければならないのだという。

江戸期の生野代官所領に含まれた兵庫県多可町の樺坂(かばさか)や神河町の川上、「鉱石の道」でつながる養父市の明延(あけのべ)…。
生野とゆかりがあったとされる鉱山は多い。但馬、播磨のほか、摂津でも、江戸末期の「神戸石炭」の採掘に生野の山師が携わったという。
そんな中で、生野と似た歴史をたどるのが、猪名川町周辺に広がっていた多田銀銅山。江戸期に銀山として栄え、明治期に民間へ払い下げられ、73年に閉山-。どれも、ぴたりと一致する。
具体的な接点も伝わる。銀山旧記によると、1632(寛永9)年には多田の鉱員が生野を訪れて製錬作業に携わり、60~70年代の寛文年間にも往来があった。
観光地としての現状は、銀の馬車道に加え、マネキンアイドル「銀山ボーイズ」やご当地グルメのハヤシライスなど、多彩な振興策を打ち出す生野に分がありそうだが、多田の存在感が勝るものがある。
埋蔵金伝説である。

「もうそろそろ、見つかりそうな気がします」
豊臣秀吉が隠した総額数十兆円とも言われる財産を探し続けた埋蔵金ハンター、鈴木盛司さん。1998年と2004年の2回、神戸新聞社の取材に応じ、発見の可能性をにおわせていた。
75年に静岡から猪名川町に移住し、坑道の探索を続けた。同志の事故死や離脱が相次ぎ、最後は一人きりで夢を追い求めたが、果たせぬまま12年に77歳で亡くなったという。
現地の資料館「悠久の館」には、鈴木さんが発見したはしごや樋(とい)など採掘に使われていた道具類が並ぶ。伝説の真偽を検証したコーナーもあり、古文書の分析に基づく同町の結論が明示されている。「埋蔵金は、存在しなかったのです!」
鈴木さんは「拝金主義の時代に、ロマンにお金を注ぎ込む日本一の大ばか者」と自称していた。暮らしていた古い日本家屋は、古道具店に模様替えして今も残る。
年季の入った家具、しゃれた食器類、子どものおもちゃ…。所狭しと並ぶ商品は、埋蔵金でこそないものの、人によっては掘り出し物のお宝に映るだろう。
日本の近現代史を渋い輝きで彩ってきた銀の物語。時の流れに翻弄(ほんろう)されながらも、その雄弁さは失われていない。
(記事・小川晶 写真・大山伸一郎)

兵庫県内には、但馬や摂津のほか、各地に鉱山や炭鉱があった。播磨では、多可町の妙見山周辺の銅や宍粟市の鉄が知られる。丹波にはマンガン鉱山があり、淡路では洲本市の由良などで石炭採掘の記録が残るが、多くが閉山した。
経済産業省によると、1950年代の4千カ所超から、資源の枯渇や安価な外国産の流入によって現在は約370カ所に減少。兵庫県内では、昨年4月時点で、加東市や養父市など6カ所でろう石や滑石(かっせき)などの操業が続く。