追悼の鐘が鳴り、祈りの声が流れた。また、あの日がめぐってきた。十七日午前五時四十六分。阪神大震災から七百三十日が過ぎた。未明の一瞬の揺れが六千四百人もの命を奪い、多くの人々の暮らしを奪った。三度目の朝、焼け跡の更地を包む闇(やみ)の中、亡くした家族や友人らのめい福を祈る被災者の姿があった。三回忌の法要、ミサの祈り、鎮魂のろうそく。まだ傷のいえない街に花束がささげられた。失ったものは大きく、悲しみは深い。兵庫県、神戸、西宮市の追悼式が行われ、仮設住宅や旧避難所の学校でも人々が静かに手を合わせた。復興への道は遠く、生活の再建に苦闘する被災者は少なくない。が、立ちすくんではいられない。震災三年目へ。鎮魂の祈りと、再生・復興の誓いのなか、夜は明けた。
午前5時46分ドキュメント
五時四十六分。夜明け前の被災地は静かに地震発生の時刻を迎えた。
◆神戸市長田区日吉町
仮設店舗で洋品店を営む桑野照次さん(76)は、裏のガレージで目を閉じ、手を合わせた。妻寿美子さん=当時(69)=の骨を拾ったその場所で、線香をともした。今年に入って、区画整理に伴う仮換地を済ませ、店舗と家の再建を決めた。「思い出がつまった土地で立ち上がることが、二年間の目標だった。戦後を思い出し、五十年若くなったつもりで必死でやる」
◆同区、鷹取教会
「追悼と新生ミサ」でベトナム人や地元住民ら約八十人が黙とう。神田裕神父(38)は「地震直後は力のある者と力のない者が、助け合うことができた。力ある者は元に戻り、ない者は戻ることができない。その差は地震の前より大きい。本当の復興は最後の一人が街に戻った時」
ベトナム人女性(35)は「地震直後はみんな心が温かく、差別の壁が崩れた。二年たって、また壁が立ってきた」
◆同市東灘区田中町
愛媛県伊予三島市から訪れた工藤延子さん(49)は神戸大大学院一回生だった息子の純さん=当時(23)=の下宿があった場所をじっと見つめた。周囲は新しい家が建ち、面影はない。純さんが好きだった「威風堂々第一番」のオルゴールを作り、友人らに贈った。震災後、神戸へは十六回目。
「一年目よりつらい。どうしようもないことが分かってくるから。いつもこれで最後にしようと思うのに、行きたくなる」
◆同区森南町
更地の横で安達節子さん(57)らが走っていた。ジョギング中に道路にたたきつけられたあの日がよぎる。仲間とは努めて震災のことは話さない。「二周年やねって、友達から電話があった。落ち込んでないかって」
◆神戸・ポートアイランド第二仮設住宅
ふれあいセンターで住民約百人が黙とう。独り暮らしの木下房枝さん(82)は「今も仮設を出るめどはないが、二年間で知らない人と出会え、目に見えない財産は増えた」
◆神戸市須磨区の信行寺
三回忌法要に参列した遺族ら約八十人が、鐘の合図とともに合掌。長女須美恵さん=当時(28)=を亡くした大滝孝晋さん(64)夫婦は、時折、空を見つめた。「一年目は泣く余裕さえなかった。思い出さないようにしているが、今日は娘のことを思い出して涙が出てくる」と孝晋さん。妻つる子さん(63)は「今年の方がもっとつらい」
◆芦屋市・中央地区の西法寺
追悼会に集まった約八十人が合掌。「心の復興、まちの復興」をテーマに話し合い、作家小田実さんが口火を切った。「震災後二年たったが、生き残った人たちは死に場所さえ失ったまま。この現実をどうするのか。生活基盤の回復のために公的支援が必要だ」
◆芦屋市・中央公園仮設住宅
ふれあいセンターに住民が約百人。住民が作った詩吟「鎮魂のうた」が詠まれ、百本の和ろうそくを祭壇にささげた。大阪・八尾仮設から引っ越してきた平田清子さん(61)は「新しい友だちもできた。せっかく残していただいた命を大切に生きていきたい」
◆西宮市・市立高木小学校
荒巻勲校長ら五人が黙とう。モニュメント「復興の鐘」が街に響いた。千百人が過ごした同小避難所のリーダーだった中西辰信さん(68)は、今も仮設住宅で暮らす。「昔のようなにぎやかな街を取り戻したい」