祭壇の一番右に、母の遺影はあった。おばあちゃんの家に残っていた、まだ三十代前半と思われる写真の顔は若い。その若い母に向かって、森幸代さんは、ささげる言葉を読み上げた◆「顔だけが笑っていて、心の中ではだれかに助けてもらいたかった。本当にさびしかった」。何度も声がつまった。大震災から二年。ずっとこらえてきた涙が、せきを切ったようにこぼれた◆先日、神戸で開かれた「今は亡き愛する人を偲(しの)び話し合う会」に出席するため、幸代さんは奄美大島から帰ってきた。会が始まる前に、この二年間の様子を聞いた。「ただ一生懸命でした」。短い言葉に、語り切れない日々を思った◆震災時、幸代さんは市立赤塚山高校の一年生だった。母と二人で暮らしていた神戸市東灘区の自宅は全壊し、かけがえのない人を失った。奄美の叔父さんを頼って、震災一カ月後に、島の高校に転入した。その日から一生懸命が始まった◆一生懸命になるしかなかった、と言う方が正確だ。「何もしないと悲しくなる」から、生徒会役員をし、テニス部に入った。公民館の英会話教室に通い、家事を手伝い、近くの店の配達アルバイトもした。「お母さんとの約束」もあった。神戸の高校でボランティア活動に参加したのがきっかけとなり、介護福祉士になると決めていた。お母さんも賛成だった◆昨年の暮れ、神戸の福祉専門学校に合格した。約束の半分は果たせた。春からは、神戸に帰ってきて勉強する。震災三年目。幸代さんは介護士を目指し、街は復興に向けて、一生懸命が続く。
1997/1/17