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(2)24世帯(下) ええとこやったけど…
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「みんなと顔を合わせるのがつらい」

 神戸市須磨区千歳町一丁目にいた小寺裕子さん(45)はつぶやいた。今は神戸市西区の仮設住宅で高校二年の長男と二人で暮らす。「みんな、震災後は急にふけて変わってしまったようで。ショックが大きかったんでしょう」

 「帰りたい」。焼け出され、地域を離れざるを得なかった千歳の人々を訪ねるたびに、その言葉を聞いた。しかし、二年が過ぎ、思いも微妙に変化していた。

 小寺さんは、五年前に義父を失い、四年前に夫が病死した。そして、震災。不幸が続いた。借地の権利は残っているが、小寺さんは千歳に帰らないつもりだ。実は神戸市西区のニュータウンにある市営住宅に申し込み、当たった。六月に入居する。

 「息子も自立するだろうし、私一人が残る。夫が亡くなり、震災で何もなくなった。静かなところへ行きたい」。小寺さんはふっきるように話した。「千歳に行くと、なくしたものを思い出してしまう」

    ◆

 太田謙一さん(48)は昨年十一月末、神戸市垂水区の市営住宅に入居した。山手の住宅地は競争率が低かった。

 「千歳はええとこやった。夏は家の前の井戸でビールやジュースを冷やしてみんなで飲んだもんや」と懐かしがったが、「戻るのは無理」と判断した。「近くに公営住宅ができるのを待ってもいつになるか分からん。それに年寄り優先や」

 仕事はケミカルシューズの下請け。家の近くにあった工場も焼けた。借金をし、二千万円近くかけてそろえたばかりの機械も使えなくなった。直後の半年は仕事をやりたくてもできず、ひたすら「今後」に思いをめぐらせた。田舎で農業を始めることも真剣に考えた。

 結局、別の場所で仕事場を借りることができた。住まいも仕事場も新しい場所で再出発した。

 「阪神大水害、空襲も経験したけど、地震が一番怖かった」と、六十年近く千歳で暮らしていた菊井福栄さん(86)は語った。今は神戸市長田区の息子宅にいる。

 「みんな仲よくて、長い付き合いやった。あんなふうにはもう暮らせんやろ。若くはないし、ここにずっといる」

 菊井さんは家に小さな地蔵をまつり、子どものように大事にしてきた。震災後、四日かけて探し、八つに割れていた地蔵を焼け跡から見つけた。高さ三十センチ。きれいに張り合わされ、赤い帽子と前掛け姿の地蔵は今、息子宅に安置している。

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 千歳町一丁目の一角=図=で暮らしていた二十四世帯。三世帯が土地を売却し、五世帯が「もう戻らない」と答えた。すでに三分の一の世帯が街を離れることを決めていた。

 五十年以上、住んでいた人が少なくない。しかし、離れて二年。家族のように親しかった隣人たちと出会うことはまれになった。電話で話すこともほとんどない。失ったものは家や家財道具だけにとどまらなかった。

 「もう元のようには暮らせない」。街を離れる決意をした人たちに共通する思いだった。

1997/1/15
 

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