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(1)24世帯(上) 帰りたい…選択の時
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 その一角には二十四世帯五十二人が暮らしていた。住宅が軒を連ねていた周辺は更地が多く、路地のあった場所も判別できない。

 神戸市須磨区千歳町一丁目。長田区と接し、ケミカルシューズの町工場や飲食店、十数坪の小さな家がひしめくように並んでいた。「人情の街」と呼ぶ人もいた。その街を震災後の火災が焼き尽くした。

 あれから二年。家を失った住民たちはどこへ行ったのか-。

 高砂市南部の旧国鉄工場跡地にある仮設住宅。すでに空き家も多く、暗くなっても明かりのつかない家が点在していた。

 「もう元の場所には建てられん。気力がないわ」

 中村幸夫さん(66)がつぶやいた。千歳町には小学二年の時から六十年近く住んでいた。十二坪の家。借地だった。

 仮設に入居した直後に転倒し、入院した。その後、尿が出なくなり、体に管をつないだままだ。妻の慶子さん(65)も足が悪い。

 「地蔵盆がにぎやかやった。昔は仮装したり、踊ったりした。神戸に帰りたい」

 慶子さんは震災前、ケミカルシューズの内職をしていた。「くつの底の耳切りを十年以上やっていた。仕事はいろいろあったな」

 「帰りたい」の思いは募るが、神戸に足を運ぶこともめっきり減った。公営住宅の一元募集は千歳の近くの場所に申し込んだが、当たらなかった。

    ◆   

 中村さんの北隣にいた山本小やすさん(75)。婦人服仕立ての仕事を続け、週一回、髪のセットを欠かさない、おしゃれな女性だった。

 震災後、須磨区のニュータウンにある娘の家に同居したという。しかし、もうそこにはいなかった。すべてが焼けた後、体調を急に崩し、八カ月後の一昨年九月、病院で亡くなっていた。

 「千歳に帰りたい」が口ぐせだったという。

 中村さんの斜め向かいに住んでいた堀岡政夫さん(72)夫婦。今は明石市内で暮らしていた。

 電気工事業を営む堀岡さんはあの日、和歌山県の発電所に出張していた。急いで引き返したが、たどり着いたのは夜中の二時。仕事場兼住居は跡形もなかった。周囲にガスが燃える青い炎が上がっていた。

 機械も焼け、廃業した。「若い人でも失業してるのに、もう働くのは無理や。蓄えを切り崩して暮らしてる。だれも助けてくれん」

 光本栄寿さん(73)夫婦は神戸市西区のニュータウンにある長男宅にいた。「息子は『このままおったらええやないか』と言ってくれるが、戻れるものなら戻りたい。安い公営住宅ができるんなら入りたい。ここでは近所の人と話すこともない」

 千歳を離れ、転々と住まいを移した住民たち。二十四世帯のうち一人が老人ホームに入り、一人が死亡した。残る二十二世帯は、仮設住宅で暮らす人、肉親宅に同居する人はともに六世帯、民間賃貸四世帯、市営住宅と社宅が各一世帯。二世帯が同じ場所に再建し、二世帯が別の場所で住まいを購入していた。

 「帰りたい」「帰れない」。そして、「帰らない」と答える人も出てきた。二年がたち、住民たちは選択を迫られていた。

    ◆

 震災後の火災に襲われ、建物の約九割が全焼・全壊した千歳地区。土地区画整理事業の対象地域となり、地元住民によるまちづくりの取り組みも進んでいるが、まだ傷跡は深く残る。千歳地区の二年を追った。

1997/1/14
 

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