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(7)待つ日々 「もうすぐ」に励まされ
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 「自治会長の鍋山さんはお元気ですか。酒屋の梶原さん、中華料理の陳さんは…」

 神戸市西区の仮設住宅を訪ねると、塩津カツエさん(79)から矢継ぎ早に質問を受けた。

 「千歳におる時は、みなさんにようしてもらって」と、震災後、ほとんど会うことのない名前が次々出てくる。

 塩津さんは神戸市須磨区大池町二丁目の長屋に住んでいた。十三年前、夫の通院先に近いこの街に、明石市から引っ越してきた。それから間もなく、夫は自宅で息を引き取った。遺体をお寺に移す時、近所の人が全員出て見送ってくれた。

 足と言葉が不自由な長男(46)を含めて家族は三人。収入は、塩津さんが毎月受け取る遺族年金と老齢年金だけ。顔を見れば声をかけてくれ、何かと世話を焼いてくれる近所の温かさが、心にしみた。

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 戦前の古い長屋が並んでいた千歳地区。約千二百世帯のうち六割が借家で、四軒に一軒は世帯主が高齢者だった。

 長い間、お年寄りたちは親兄弟以上のきずなで支えあってきた。震災後の火災は、そんな下町を焼き尽くした。支え、支えられた住民はちりぢりとなり、今では満足に連絡も取れない。塩津さんのように、仮の住まいから千歳に思いをはせる人は多い。

 区画整理事業に住民の声を反映させようと発足したまちづくり協議会は、「街に帰りたい」というお年寄りの願いをくみ、一つの合意を掲げた。「高齢者のための公営住宅の建設」である。

 「地区で育った子どもたちは土地を離れ、老いた親が残った。一人暮らしも少なくない。自力でどうすることもできん年寄りほっといて、区画整理もおまへんやろ」。協議会の副会長、出口敬三さんはそういう。

 鍋山嘉次会長も「公園や道路では譲っても、公営住宅建設は一歩も譲れない。譲れば多くの住民を切り捨てることになる」という。

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 塩津さん一家は、知人の家や福祉施設などを経て、震災の年の五月に今の仮設住宅に入った。

 以来、一年半あまり。仮設内でのつきあいも増えた。「煮物作ったから」「おいもさん食べて」。隣近所でおなべが行き交う。風邪をひいたと聞けば襟巻きを持ってきてくれる。しかし、甘えていいのかと、どこか構えてしまう。

 昨年末、千歳に住んでいた平井正二さんと、西区内でばったり会った。近くの仮設住宅に住む平井さんは、千歳地区のまちづくり協議会役員でもある。

 「きっと帰れるようになるから。もうちょっとの辛抱やで。がんばりよ」

 いま、その言葉が支えになっている。

 「幸い家族仲良く暮らせてますから。生きてたら、いろんなことありますわ」と話す塩津さんの望みは、もう一度千歳に帰ること。

 震災から七百三十日。塩津さんにとって、多くのお年寄りにとって、「その日」をひたすら待つ日々が続く。

1997/1/21
 

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