兵庫県南部を中心に六千四百三十人の命を奪った阪神・淡路大震災から三年。四たびの冬、被災地は十七日午前五時四十六分を静かに迎えた。震災の傷跡の見えにくくなった大地に悲しみが刻まれている。鎮魂の歌声、祈り、揺れるろうそくの火…。生と死が交錯したマグニチュード7・2の記憶がまざまざとよみがえる。残った者が「精いっぱい生きよう」とあらためて誓った日、明石市立天文科学館の大時計は復興への願いを込めて再び時を刻み始めた。
大火で焼失した神戸市長田区日吉町。区画整理で拡幅工事中の道路わきで、山田裕子さん(21)が線香とお茶を手向けた。倒壊した家に閉じ込められた弟の玉島雅行君=当時(15)=を救い出せなかった。「まずお母さんを助けて」。最後まで気遣った母は救助された。
昨年結婚し、明石に住む。「あの子の分まで幸せになろうと思った」。住んでいた文化住宅の跡地は更地のままだが、周囲では住宅の再建が始まっていた。
同じ区画整理地域の長田区御蔵通。仮設の金物店を営む柴野栄一さん(68)夫婦は母ハツさん=当時(90)=の位はいに手を合わせた。
供えたご飯は、まきを使って更地で炊いた。「子どものころ、母はこうやって炊いていた。思い出をたどって、この三年続けています」。昨年秋、仮換地指定を受けたが、市との交渉は進まず、新しい土地に移るめどは立たない。「早く本建築の家を建てたい」
近くで新聞配達をしていた堀川清治さん(68)は「配る先は震災前の半分。三年間、増えも減りもしなかった」。自転車のライトが暗い路地の跡を照らした。
東灘区の山間にある保久良神社には登山会のメンバーが集まった。境内の記帳所でメンバー四人が亡くなった。ラジオ体操を前に約五十人が黙とうした。
震災で弟を亡くし、仮設住宅から登山を続ける安垣百合子さん(68)は「早いような三年間。公営住宅の抽選に当たらず、今は家のことで頭がいっぱい」
眼下には市街地と港が広がる。「あの時、一瞬にして神戸の明かりが消えた」という。今、同じ場所からの光景は、以前の輝きに戻りつつある。
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兵庫区永沢町。無添加パンの店「街のイスキア」はこの日正午のオープンを控え、小麦を練るミキサーがうなりを上げていた。Tシャツ販売を通じて被災障害者支援を続ける「百番目のTシャツ」の店。伯井章治社長(47)は「震災で実感した人への思いやりを大切にしたい。無添加パンはその第一歩です」。
約三百世帯が暮らす芦屋中央公園仮設住宅では、八十人の住民が追悼集会を開いた。公営住宅への入居が決まった仲静江さん(72)は「今日を区切りに前向きに生きていきます」と誓った。
あの時に合わせて鐘が鳴らされた芦屋市茶屋之町、西法寺。宗派を超えて僧りょや牧師、被災者が集まり、精神科医、野田正彰さんが講演した。「私たちはすべてを失ったのではない。悲しみの中で生きている幸せを感じたとき、再建がスタートする」
次第に周囲は明るくなり、あの朝のような青空が広がった。四年目の街が動き始めた。
1998/1/17