「追悼之碑」は、桜の木に囲まれた公園の北側、少し高くなった位置にある。野坂昭如さんの小説「火垂の墓」の舞台になったニテコ池のすぐそばだ◆被災地の自治体として初めて西宮市が建立した「追悼之碑」は震災三年のきょう、除幕される。幅八メートル、高さ二・五メートルの御影石に刻まれた名前は千七十九人。なんと多くの「死」があったことか。なんと多くの「人生」が断ち切られたことか◆「胎児八ケ月」の刻銘がある。お母さんの名前の横に、寄り添うようにやや小さめに彫ってある。会うことのなかったわが子に、お父さんは「生きたあかしを」と希望した。祖父と祖母の間に、孫の名を刻んだ遺族もいる。里帰り中に犠牲になった女性は、実家の家族とともに並べられた◆こうして五十音、年齢順が少し不規則になる碑には、空白の部分もある。今回、刻銘を辞退した六十七人分だ。かけがえない家族の名を刻むには、三年はまだ短い。埋め切れない喪失感、心の痛みが、名を刻むことをためらわせる◆碑は被災地の「いま」に重なる。三年たってもまだ復興したと言えない、いらだちや痛みが空白部に詰まっている。公営住宅は計画通りに建ちつつあるが、なお二万四千世帯が仮設住宅に残り、七千百世帯は移転先が決まらない。県外被災者対策も立ち遅れている◆救済の網から漏れ、苦しむ人も多い。不況が追い打ちをかける産業、雇用、潜在化する心の傷。「復旧八割、復興二割」(貝原知事)が被災地の実感だ。空白の碑の声が聞こえないか。「わたしたちは、どこの国に住んでいたのか」
1998/1/17