そのとき、母は台所にいた。崩れてきた柱が直撃し、いのちを奪った。
「わたしのせいだ」
A子さんは、そう自分を責め続けてきた。
当時、彼女は高校一年生だった。あの一月十七日の前夜、宿題をやり残したため、「朝早く起こして」と母に頼んで床に就いた。母は起床を早め、そして台所に立った。
「わたしさえ宿題をやってしまっていたら。早起きを頼まなかったら」
母一人、娘一人の家庭だった。母はかけがえのない存在だった。喪失感は大きい。自分だけが生き残った罪悪感が重なる。
母の死をだれにも語らない。できるだけ震災に触れない。思い出さない。そっとやり過ごして悲しみを心の中に封じ込める。そうしないと、心が破れそうになる。
こうした心の動きを、金城学院大学の副田義也教授は「哀悼の拒否」と呼ぶ。阪神・淡路大震災で、親を失った子どもたちの多くに共通する心理である。しかし、現実に目をつぶることで心の傷が癒(いや)されるわけではない。時間は問題を解決しない。むしろ、傷を深くする。
A子さんは震災遺児を支援する「あしなが育英会」のスタッフやボランティアに励まされ、ちょうど一年前の一月十七日、育英会主催の会で、初めて母の死を語った。ひとつのハードルは越えた。
昨春、福祉専門学校を卒業し、就職して自立した。成人式を迎え、おとなになった。明るくて、元気で、しっかりしている。
そんな彼女でも、震災という言葉を聞くと涙があふれる。頭が痛くなる。眠れない。生活のリズムが崩れる。虚脱感に襲われる。大震災が心に刻み付けた傷が、いかに大きいか。
初めてあたった光
何度もよみがえる恐怖体験。音や揺れに反応し、神経が高ぶり、不眠に陥る。さらには生活の激変によるストレス、将来への不安感など災害や事故をきっかけに心に深く刻み付けられる傷を、トラウマ(心的外傷)という。
こうした「心の後遺症」に、これまではほとんど目が向けられず、個人で克服するしかなかった。阪神・淡路大震災で、初めて本格的な取り組みが始まったと言っていい。
その中心になったのが、県の構想で設置された「心のケアセンター」である。神戸市中央区に本部を置き、被災地域に十五の地域センターを設けた。県精神保健協会が運営主体になり、復興基金を活動資金に充てた。九五年度から九八年度の相談件数だけでも三万七千件を超えたことを見ても、精力的な取り組みがうかがえる。
これとは別に、子どものケアに児童相談所があたり、学校現場には復興担当教員やスクールカウンセラーが配置された。いずれも、かつてない試みであり、規模だった。
県の「震災対策国際総合検証会議」で、日本社会事業大学の京極高宣学長は「わが国で心のケアという言葉が実際に市民権を得たのは、阪神・淡路大震災後であることはぜひとも、付記しておく必要があろう」と報告した。その通りだと思う。
災害救援に、人間の視点が加わったことが何よりも大きい。さらに犯罪被害などの際にも「心のケア」が視野に入るようになったことや、救援にあたる警察官や消防士にも「心の後遺症」が残ることをはっきりさせた点なども成果に数えられるだろう。
医師や学校と連携を
中心的存在だった「心のケアセンター」は、西宮市の地域センターを除いて保健所などに役割を引き継ぎ、当初計画通り今年三月末で、その役割を終える。どんな課題が残ったのか。
ひとつは、復興住宅に移ってからも心の不安を抱く人が多いことだ。時間の経過とともに、街から震災の傷跡が消えかかり、被災地の中でも記憶は徐々に希薄になり、孤立感は深まる。生活支援と両輪の形で、「心のケア」を継続する必要がある。
また、子どものケアは児童相談所などに託されたが、連携は十分とは言えなかった。親が抱えるストレスは子どもに影響し、子どもの不安は親にはね返る。家族単位のケアが要る。
県教委の調査が、それを裏付けている。ケアを必要とする小中学生四千百五人のうち、ほぼ半数が家族関係や経済環境の変化を要因に挙げている。二次ストレスが新たな発症につながっていると見るべきだろう。
あしなが育英会が遺児家庭を対象に行った調査では、四〇%の子どもがこの五年間に「死にたいと考えた」と答えている。震災の恐怖による傷の深さと、生活の変化が与える影響を、あらためて思い知らされる。ケア体制を継続する努力をしたい。
たとえば、五年の取り組みで育った人材を登録し、地域ごとにネットワークをつくる。医師やカウンセラーに加わってもらい、あしなが育英会などケアグループや学校とも連携する。それを行政が支援する。
災害救援のひとつのモデルになった「心のケア」を、今度は災害後の支援モデルに育てる。被災地が果たさなければならない課題である。
2000/1/17