いてつく朝。りんとした空気がまだ暗いまちを包んだ。十七日午前五時四十六分。阪神・淡路大震災から六年。人々は揺れる炎の前で、静かに祈りをささげた。震災で、六千四百三十二人の命が奪われた。しかしふと気付くと、周囲の風景は、そんなことさえなかったかのように落ち着き始めている。迫る風化の波。人々は震災の教訓を伝えようと歩き始めた。その列に、あの年に生まれた子どもたちの姿がある。「なんで地震で人が死ぬの」と、どこまでもあどけない幼子たち、次代をひらく希望。七年目が始まった。あすを育(はぐく)んで、いま歩む、この子らとともに。
神戸市長田区若松町三、神戸の壁の跡地で開かれた追悼集会。近くの張有花ちゃん(5つ)が「希望の灯り」でともしたたいまつを持ち、たき火に火をつけた。
震災の年の九月五日に生まれた。母親の清美さん(37)が妊娠を知ったのは震災の前日。次の日、清美さんは同区細田町の母親=当時(51)=を失った。倒壊した家の下敷きになって命を落とした。自宅も全焼した。
夫婦は有花ちゃんに震災の話をする。まだよく分からない様子で、「なんで地震で人が死ぬの」「あそこの空き地は何」などと聞いてくる。清美さんは「なくすものが大きすぎた中で生まれてきた子。一緒に、一歩ずつ前に進んでいきたい」といつくしむ。
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同市東灘区の山本紘彰くん(6つ)。身代わりのように、あの日、産声を上げた。出産予定日を翌日に控えていた母親の光子さん(35)は、自宅マンションで激震にほんろうされた。家族の無事に安心するまもなく陣痛が訪れた。
産婦人科は停電し、分娩室(ぶんべんしつ)は薬品が散乱して使えなかった。夕刻、診察室で産んだ。
翌朝、周囲に避難勧告が出た。転院先に向かう車の窓から見る街のあちこちで、遺体がそのままになっていた。「亡くなった方に、新しい命を授けてもらったんだ」。光子さんは、紘彰くんを抱きしめた。
あれから六年。夫婦はいま、わが子を近くの慰霊碑に連れて行き、震災の話をする。多くの人に助けられたことを知ってほしいと。
「小学校に入ったら、自分の生まれた日の持つ意味を考え、命の大切さを感じとってほしい」と母。四月、紘彰くんは、小学生になる。
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私立西灘幼稚園(神戸市灘区)の園児約五十人は、兵庫県などが主催する「1・17ひょうごメモリアルウォーク」に参加した。震災の度に生まれた子たちだ。県の追悼のつどい会場までの約四百メートルを、ほおを赤く染めて歩いた。
平唯奈ちゃん(6つ)は、母親の晴枝さん(31)と一緒だった。晴枝さんは「あの日のことを問い直すために参加しました」と言った。
「1・17」後に生まれ、震災を知らない子どもたちは、神戸市でもう約八万人、被災十市十町で約二十万人もいる。(西 栄一)
2001/1/17