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祈り

 夜明け前。小さな雨が街に落ちる。路地から人影が現れる。

 神戸市東灘区田中町の中之町公園。十七日午前五時四十六分。阪神・淡路大震災から丸七年を刻んだ。

 見回してみる。高層住宅と新しい家並みが公園を包む。以前の面影はほとんど残っていない。一帯で亡くなった百三十三人の名前を記す慰霊碑の前に、数十人の小さな集まりができた。

 祈る。その時間は短い。人々は静かに祈り、静かに去っていく。

 「あの子が亡くなり、私は生きている。なぜ?」と、一人の母親は言った。

 「もう七年ですね。生きなくては、と自分に言い聞かせる毎日の積み重ねでした」

 ふと、公園を去る人々の足取りが止まった。一人の女性がバイオリンを奏でた。「ふるさと」の調べが流れる。つぶやくように歌う声が重なった。

 中央区の東遊園地。震災犠牲者の数だけ竹筒が並ぶ。六千四百三十二本。灯火(ともしび)が、ほの暗いやみに浮かび上がる。

 明けない夜はない。祈りとともに朝が訪れた。

森玉康宏)

    ◆

指先でたどる2人の碑名 遺族代表・白木さん 息子失い妻も…追悼の日重ね

 午前五時四十六分の時報。白木利周さん(59)はすっと背を伸ばし、静かに目を閉じた。

 「震災七周年追悼の集い」が開かれた神戸市中央区の東遊園地。遺族代表で参加した白木さんは、人の波から少し離れ、その時を迎えた。

 同市東灘区御影町郡家の自宅は全壊、長男の健介さん=当時(21)=を失った。昼は郵便局で働き、夜は神戸大経済学部で学ぶ頑張り屋だった。一家は利周さんの会社の施設へ避難した後、川西市、伊丹市と転居を繰り返した。

 昨年十月、神戸市北区菖蒲が丘にわが家を再建。しかしその翌月、家族は再び悲しみを味わった。妻の朋子さんが亡くなったのだ。五十八歳だった。他の遺族との交流で明るさを取り戻したかに見えたが、昨年六月、食べ物も水も受けつけなくなり入院。新居で暮らすことなく、息子のもとへ旅立った。真新しい家には、長女(25)と二人だけになった。

 この朝、東遊園地にともり続けるガス灯「1・17希望の灯(あか)り」を、利周さんは参加者にろうそくで分けていった。震災丸五年の二年前、妻も一緒にともした灯り。いとおしそうに、ろうそくの火を手で覆った。ポケットには、妻と息子の二人の写真があった。

 追悼の集いであいさつに立った後、「慰霊と復興のモニュメント」に刻まれた息子の名に触れた。そして今年は、モニュメント建設の寄付者にある妻の名にも。

 今、「希望の灯り」を後世に伝えるNPO(民間非営利団体)法人の設立準備が進む。利周さんは、設立発起人の一人に推された。

 「必要とされるんだから、いいんじゃない」。娘はそう言ってくれた。

 兄と母を見送り、自分を支えてくれた娘。兄の思いを継ぐように、郵便局で働き始めた。(磯辺康子)

2002/1/17
 

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