一九九五年八月末、被災者の避難所暮らしがようやく解消された。学校の体育館や教室での共同生活。長い人で七カ月に及んだ。
震災直後から避難所に足を運んだ。プライバシーがないとの不満をよく耳にした。板や紙で周りに壁をつくり「居住空間」を確保する人もいた。
芦屋市職員の飯干〓(あかし)さん(58)。当時、市の対策本部に詰めていた。「みんなストレスがたまっていた。きちんとした間仕切りを支給しなければ、と思った」
特殊な段ボール紙に厚紙を張り合わせた。一×二メートルの板を千枚以上。燃えにくく、大人が乗ってもつぶれない。カッターナイフやガムテープで棚やたんすに作り替えられる。苦心の作だった。
芦屋市と尼崎市の避難所に配った。二月末。震災から一カ月のことだった。
尼崎市の園田児童館。今も間仕切りが残っている、と聞いて訪ねた。全部で十三枚。子どもたちが迷路にして遊んだりする。何に使われていたのか、知る人は少ない。
兵庫県の防災計画には避難所開設の場合、プライバシーに配慮するよう記されている。しかし、間仕切りを準備し、備える自治体はあるだろうか。(写真部 三津山朋彦)
◆
阪神・淡路大震災。避難所と仮設住宅の風景から、「今」を眺めた。
(注)〓は「さんずい」の右に「正」
2004/5/10