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石末龍治・神戸ユースコーチ チームの練習場所を岡山に求めたヴィッセル神戸の選手たち=1995年2月13日、倉敷市の川崎製鉄広江グラウンド
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石末龍治・神戸ユースコーチ

チームの練習場所を岡山に求めたヴィッセル神戸の選手たち=1995年2月13日、倉敷市の川崎製鉄広江グラウンド

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1995・1・17

消えたチーム始動日

 1995年の元日に発足したヴィッセル神戸はチーム始動日の1月17日に被災し、3カ月間、岡山県倉敷市内での暫定練習を余儀なくされた。横浜Fから移籍したGK石末龍治は2月から合流し、初代主将としてチームをまとめた。
 3月には震災の影響で筆頭株主のダイエーが撤退するなど苦難続き。神戸での初練習が実現したのは4月12日で、その後はユニバー記念補助競技場やしあわせの村など練習場を転々とした。
 5月に開幕したジャパンフットボールリーグ(JFL)では序盤10戦で3勝7敗。J昇格の夢は早々に断たれた。それでも後期は石末やシーズン途中で加入したFW永島昭浩(現解説者)DF和田昌裕(現神戸コーチ)が奮闘し、13勝2敗の大躍進。翌96年、JFL2位でJ昇格を決めた。

励まし 今も力に

 2月から神戸に合流したから、震災が起こった日は、まだ川崎市の自宅だった。一日中、テレビにかじりついていた。地元のいろいろな人に電話したけど、だれにも通じない。神戸でサッカーをやっていけるのかなと心配した。

 神戸移籍を決断したのは、地元でサッカーをすることは自分にとってプラスになるし、恩返しの意味もあった。前年からオファーがあったと聞いていたし。

 当時の兵庫県サッカー協会の高砂会長からは「(同期の)永島も和田も神戸に決まっている」と聞いたけど、実はまだやった。

    ◆

 倉敷での練習は個人的にサッカーができる喜びがあった。チームの雰囲気も明るかったと思う。春に神戸に戻ったときは「日本じゃないな」と感じた。僕の家は西区だったけど、三宮に近づくにつれて青いビニールシートが増えて…。3時間かけて着いた神戸中央球技場(兵庫区)はグラウンドが波打ち、スタンドもひび割れている状態。一部の平らな場所で、なんとかボールをけった。

 すべてが不安定だった。前期はチームが存続していけるか分からない中、「プレーで示していくしかない。95年でJ昇格を決めるしかない」と気負い過ぎたのかもしれない。僕自身、調子も崩した。それが、永島、和田が入ってきて、気持ち的に随分楽になった。

    ◆

 そして後期が始まる前には、いぶきの森球技場(西区)が完成し、練習環境も整ってきた。クラブの存続も決まっていたし、安心感が生まれた。

 そのころの練習場の周りは、すべて仮設住宅。ボールをけり込むのを申し訳ないと思っていたけど、僕がたまたまボールを取りに行ったときに、そこに住んでいるおじさんに「謝る必要ないよ。頑張ってや、わしらの分まで」と励まされ、涙が出た。あの一言は僕の中で、今もすごく大きな意味を持っている。

 早々に優勝の目は消えていたけど、結果を残してみんなを元気づけようという気持ちが後期の連勝につながった。翌年につながる手応えは十分にあった。Jリーグに上がって神戸市民を勇気づける。それだけがモチベーションだったから。

    ◆

 今のヴィッセルは若い選手ばかりだし、震災のことを引きずる必要もないだろうけど、サッカーに、ファンサービスに真剣に打ち込める姿勢を自分自身で追求していかなければならないと思う。

 実際、あこがれられている選手は、ごく一部だけだろう。そうなりたいと意識している選手も少ない。子どもたちの、ファンの目を見て接することで、プロ選手というのは必ず誰かに支えられているんだということが分かる。実感してほしい。

(聞き手・小川 康介、写真・藤家 武)

被災者を勇気づけられるサッカークラブにしたいという思いは、僕の中でずっとあり続ける。仮設住宅での一言は忘れられない。僕の今の立場からは、人間的に優れ、夢を持って語れる、あこがれられるプロ選手を送り出したい。

略歴 いしずえ・りゅうじ 1964年、伊丹市生まれ。瑞穂小5年でサッカーを始め、伊丹北高3年時の82年には永島昭浩(当時御影工高)和田昌裕(同御影高)らと、兵庫県選抜の一員として島根国体少年の部で優勝した。93年のJリーグ開幕から横浜Fでプレーし、95年に神戸へ移籍。98年末に引退し、現在は下部組織の総合アドバイザーを務める。神戸市灘区在住。

2005/1/13
 

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