6434人が亡くなり、3人が行方不明となった阪神・淡路大震災は17日、発生から丸16年を迎え、神戸市中央区の東遊園地をはじめ、各地で追悼行事が営まれた。涙を流し、手を合わせる女性。孫の手を引き訪れた老夫婦。登校前の高校生は制服姿で参加した。あの日を思わせる寒風が吹き抜ける。鎮魂の灯りを揺らす。地震が起きた午前5時46分に合わせ、記憶の中で生きる大切な人に祈りをささげた。「絶対に忘れないよ」。被災地の夜が静かに明けた。
仲直り直後…母逝く
「親不孝ばっかりで、ごめんな」。夜明け前、神戸・三宮の東遊園地。竹灯籠の揺れる火を前に、「やんちゃくれ」の目から涙があふれ出た。
初めて追悼行事に訪れた会社員平野英雄さん(46)=東京都=は、震災で生まれ育った神戸市東灘区魚崎中町の実家が全壊、1人で住んでいた母喜美子さん=当時(57)=を亡くした。
3人兄弟の真ん中。10代の時、がんを患った父俊也さんが他界し、3人は喜美子さんが女手一つで育てた。そんな母に英雄さんは「やんちゃくれで、心配ばかりかけた」。ついには勘当同然で家を出ていくことに。以来、母親の様子を気に掛けつつも、実家の敷居をまたげない歳月が続いた。
地震前年の1994年。弟の卓雄さん(41)=芦屋市=が、喜美子さんに謝るよう英雄さんを説得。喜美子さんも「こたつを温めて待ってる」と伝え、その年の年末、当時、大阪に住んでいた英雄さんは約5年ぶりに実家に戻った。
「今までごめん。これからは、親孝行させてくれへんか」とわびた英雄さんに、喜美子さんも息子の気持ちを受け入れ「じゃ、旅行に連れて行って」と笑顔で応えた。95年の正月は久しぶりに親子4人で過ごした。
再出発した母子を悲劇が襲ったのはそれから約2週間後。地震発生から1日半、崩れた自宅の下から引き出された喜美子さんの体は既に冷たくなっていた。「おい、何しとんねん」。英雄さんは何度も、何度も母に呼び掛けた。
震災後、東京で働くようになった英雄さん。毎年1月17日朝、神戸の方を向いて手を合わせてきた。「つらくて、悔しくて、この日に帰ることはできなかった」が、「お母ちゃんのことを知らないおいっ子たちも、毎年ここで祈ってくれている」と今年は卓雄さん家族とともに東遊園地へ。
冷たい風が吹く中、卓雄さんの長男俊君(10)、輝君(8)らと静かに手を合わす。「これからは毎年来るよ」。頬を伝う涙はぬぐっても、ぬぐっても止まらなかった。
(宮本万里子)
2011/1/17