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自宅のダイニングキッチンが仕事場。ここで多くの作品を書き上げてきた=島根県内の自宅
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自宅のダイニングキッチンが仕事場。ここで多くの作品を書き上げてきた=島根県内の自宅

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 阪神・淡路大震災当日、阪神高速道路が倒れているニュース映像を夫の赴任地のドイツで見た。高速道路が倒れるということが想像できず、ただ、ぽかんとしていた。

 3年後、帰国して夫の郷里である島根県に居を構え、脚本家になった。震災15年の被災地を描くNHKドラマの脚本を依頼されたのは、2008年の夏だった。

 それまで、震災をどう捉えていいか分からず、重苦しい出来事として胸の奥に押し込めていた。「今日良いことをすれば、明日良いことがある」というような、ささやかな条理を心の支えに生きていたのに、震災は法則もなく不幸をもたらす不条理の塊だった。だから、不用意に持ち出すのが怖かった。向き合うのを避けていた。

 ただ、ここで向き合わなければ作家としても駄目だなと感じた。震災を「なかったこと」にして、先延ばしにしていた私自身を、登場人物に吹き込んだ。ドラマ「その街のこども」は、10年1月に放映された。

 翌年、東日本大震災が起きた。不条理な災害は再び起こると実感した。その前提で生きる気構え、心の根をどこに置くかと考える時、阪神・淡路大震災を忘れてはいけないと強く思う。

     ◇

 阪神・淡路大震災後間もなく、当時暮らしていたドイツから一時帰国し、被災地を歩いた。

 西宮市の実家は無事だったが、古里を襲った震災を自分の目で確かめずにはいられなかった。神戸も大学時代になじんだ街。変わり果てた風景を前に「悲しい」「ショック」という言葉が浮かんだが、自分の感情を表すにはあまりに軽かった。

 脚本を手掛けたNHKドラマ「その街のこども」は、子どものころに震災を経験し、心にわだかまりを抱えていた男女の物語。2人は15年後の被災地で出会い、一晩中歩く中で震災に向き合っていく。

 どこから手を付ければいいのか分からないような記憶も、見つめることで、そこに血が通い、何らかの解放が起こる。そう伝えたかった。私自身、忘れようとしていた震災に向き合い、実感したことだった。

 当初、フィクションで描くことに抵抗があったという。

 震災は安易に手を出せない重いテーマだった。しかし、脚本を依頼してきたプロデューサーらはその重みを同じように感じていると思い、引き受けた。

 作中に登場する男性は、震災直後に修理代を吹っ掛けて大もうけした屋根職人の息子という設定だが、そういう被災地の現実は、ドキュメンタリーよりフィクションの方が伝えやすかったと思う。

 ただ、現実に近づく努力をしても、自分がよく知らない部分を想像でそれらしく描くことは慎んだ。

 執筆中、取材や撮影の立ち会いなどで、たびたび神戸を訪れた。

 「思い出したくない」という人のために、街はあえて震災の色を消しているように見えた。震災について繰り返し表現する行為は、被災した人々の傷口を開くのではないかと感じた。そんな疑問を抱えながらの執筆だった。苦しい体験を「忘れたい」という気持ちは、誰も責められない。

 東日本大震災が起き、気持ちに変化が生まれた。

 震災は人生に一回の特殊な出来事ではなく、繰り返し起こるのだと実感した。その事実を突き付けられ、阪神・淡路大震災を忘れてはいけないと強く感じるようになった。

 身近に「死」を見つめていたであろう昔の人に比べ、私たちは、社会や経済がうまく回転するように「死」や「病」といった暗い連想を遠ざける傾向がある。多くの人は頼るべき哲学や宗教を持たない「丸腰」で生きている。不条理に向き合うための備えを、それぞれの心に刻んでおかねばならない。

記事・森本尚樹

写真・吉田敦史

▽わたなべ・あや 1970年、西宮市生まれ。甲南女子大学卒。2003年、映画「ジョゼと虎と魚たち」で脚本家デビュー。脚本作品に映画「天然コケッコー」、NHK連続テレビ小説「カーネーション」など。島根県在住。

2014/1/13
 

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