1999年9月21日、台湾中部でマグニチュード7・7の大地震が起きた。死者2415人、負傷者は1万人以上。台湾大学の教授として復興に関わった。
常に参考にしたのが、その4年8カ月前に起きた阪神・淡路大震災だった。
発生直後の緊急対策、被災者の住宅再建、火災などで壊滅的な被害を受けた地域の復興-。阪神・淡路は、近代都市型の災害がどのような問題を生み、どう解決すべきかを示す一つのモデルだった。
神戸では、行政主導の再開発や区画整理事業が住民の反発を招いた面がある。そこから学んだのは「住民参加なくして真の復興なし」という教訓だった。
被災地の住民自身が地域の魅力を見つめ直し、再生の道筋を模索する過程を、まちづくりの専門家として支援してきた。アイデアを出し合い、人気の観光地に生まれ変わった村もある。多くの住民は、被災前よりも地域に関心と誇りを持って暮らすようになった。
阪神・淡路から19年。復興は成し遂げられたのか。答えは人によって違うだろうが、阪神・淡路が発した「復興とは何か」という問いは今なお重い。台湾の私たちもその問いに向き合い、「住民主体のまちづくり」に汗を流してきた。
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台湾大学の教授時代に起きた1999年の台湾中部大地震。阪神・淡路大震災の復興過程を知るまちづくりの専門家として、政府の対策本部に入った。
阪神・淡路の直後から神戸には何度も通い、復興の在り方を研究していた。行政主導で再開発や区画整理事業の区域が決められ、住民の反発を招いた地域もあった。その結果、今なおわだかまりを抱える住民がいる。19年たった今も神戸市の再開発事業は完了していない。
その現状が示すのは「安全や効率を重視した計画だけでは不十分。住民参加なくして復興はない」ということだ。
台湾の被災地復興は「社区営造」という考え方を取り入れた。社区はコミュニティー。営造は建物などのハード、文化などのソフトの両面を構築することを意味する。
ハードの復興を優先し、さまざまな摩擦を生んだ阪神・淡路を教訓に、台湾では文化や産業など生活に関わるソフト面の復興に力を入れた。住民同士で話し合い、地域の自然を生かしたエコツーリズムによる再興を成し遂げた村がある。地元の料理を提供する共同食堂を始め、観光名所となった村もある。
重要なのは、住民が主体となる地域活性化。阪神・淡路が発した「復興とは何か」という問いに対するわれわれの一つの回答だ。
台湾の被災地は、震災を語り継ぐ取り組みにも力を入れる。阪神・淡路後、カトリックたかとり教会(神戸市長田区)に建てられた紙の建築物「ペーパードーム」を移築して活用するなど、神戸との交流も深めてきた。
被災地の台中市では、中学校の運動場に現れた断層や壊れた校舎をそのまま保存し、展示している。これは野島断層を保存している北淡震災記念公園(淡路市)を参考にしたものだ。
阪神・淡路大震災という一つの災害を起点に、他の国や地域、そして次世代へと教訓が継承されている。東日本大震災の被災地でも、台湾の芸術家が壁画制作などの活動をしており、阪神・淡路で生まれた絆は今も広がっている。
阪神・淡路大震災から19年。復興過程をどう見ているか。
見方は分かれるだろうが、ある程度の復興は達成した。一方で長い歳月を経て見えてくる問題もある。地場産業の長期的な復興過程や、19年前はあまり重視されなかった女性特有の課題…。20年という節目を前に、現在進行形の教訓として、いま一度、検証し直すべき時期かもしれない。
阪神・淡路は近代的な都市型災害のモデルケースだ。発生直後、数年後、数十年後-と時期によって学ぶべき課題や視点はいくらでもある。決して「過去の災害」ではない。
記事・黒川裕生
写真・吉田敦史
▽ちん・りょうぜん 1947年、台湾・嘉義市出身。2012年まで台湾大学教授。04年から、国レベルの防災研究機関である「国家災害防救科技センター」のセンター長を務める。専門は防災、まちづくり。台北市在住。
2014/1/19