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「碑ができたことで気持ちが吹っ切れた」と話す加藤文子さん=神戸市東灘区本山中町4(撮影・鈴木雅之) 神戸新聞NEXT
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「碑ができたことで気持ちが吹っ切れた」と話す加藤文子さん=神戸市東灘区本山中町4(撮影・鈴木雅之)

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 1995年1月17日未明、神戸市東灘区本山中町4丁目の保久良(ほくら)市場。辰巳伸子さん=当時(60)=は夫を手伝い、軽トラックで牛乳の配達を始めていた。

 午前5時46分。積み込みのため、店に戻ったところだった。市場全体で2階が落ち、生き埋めになった。

 「たまたま早く1回目の配達が終わって。いつもならまだ外にいたのに」

 長女の加藤文子さん(61)は、兵庫県伊丹市の自宅から駆け付けた。救出された父や夫と母を捜し続けたが、市場の大きな梁(はり)や余震に阻まれた。応援の消防隊が来て、亡きがらが見つかったのは20日の夕方のことだった。

 両親が寝起きしていた近くのハイツも全壊。後片付けと店の引き継ぎに追われ、その年の秋には病気を発症した妹も失った。

 そこから、市場の跡に立ち寄ることはなかった。

◇   ◇

 68(昭和43)年、加藤さんが10歳のとき、一家は保久良市場で牛乳販売店を始めた。両親について回り、集金や配達を手伝った。

 屋根のあるアーケードをにぎやかに行き交う買い物客。雨の日には子どもたちの格好の遊び場だった。加藤さんはよく、年下の子の自転車を押してあげた。

 春はだんじり。夏は地蔵盆。小中高、短大と地元を離れず、神戸で保育士の道を選んだのは、市場で小さな子と遊ぶ楽しさを覚えたからだった。

 25歳で結婚し、街を出た。あの日まで、4丁目は、父母がいる故郷だった。

 その街で今年4月21日、慰霊碑の除幕式があることを知らされた。市場の商売仲間で、碑の建立を呼び掛けた大町真由美さん(72)が、地元の同級生を通して連絡してくれた。

 「何年たっても気に掛けてくれる人がいる」。電話口で涙がこぼれた。行きます、と即答していた。

 四半世紀がたち、ようやく震災に向き合う気持ちが生まれていた。保育所の研修で、体験を話してほしいと言われた。若い保育士は震災をほとんど知らなかった。伝えなければ。そう思うようになった時期だけに、巡り合わせを感じた。

 すっかり姿を変えた街。「どないしてたん」。市場で筋向かいだった山田美代子さん(76)に声を掛けられた。「市場にマンションが建つまで、月命日にはあんたのとこにも花を供えよったんよ」

 昔から見守ってくれた人たちの手で碑ができ、戻って来られたことがうれしかった。

 加藤さんと再会した大町さんと山田さんは、思いを強くした。やっぱり犠牲者全員の名前を、街の歴史に残したい-。除幕式の後、2人は図書館で手がかりとなる一冊の本を見つけた。

2019/10/25
 

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