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日の丸のユニホーム姿で仲間と写真に納まる土井修爾さん(右端、佐々木叔子さん提供)
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日の丸のユニホーム姿で仲間と写真に納まる土井修爾さん(右端、佐々木叔子さん提供)
広島県立観音高校に寄贈した記念メダル=広島市西区
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広島県立観音高校に寄贈した記念メダル=広島市西区
佐々木叔子さん。戦争のことを話してみようと思うようになったのは、最近のことだ=神戸市垂水区(撮影・吉田敦史)
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佐々木叔子さん。戦争のことを話してみようと思うようになったのは、最近のことだ=神戸市垂水区(撮影・吉田敦史)

 平和の祭典である「オリンピック」に出場後、戦渦に巻き込まれ、命を落とした「戦没オリンピアン」。現在までに、38人の日本人戦没オリンピアンが判明しているが、その中で最も早く亡くなったのが、ロサンゼルス五輪(1932年)に出場した土井修爾さんだ。水球日本代表として五輪初出場を果たした一人の選手と、残された家族の悲劇を伝えたい。(中島摩子)

 1932年のロサンゼルス五輪。水球には、ドイツ、米国、ハンガリー、日本の4カ国が出場した。初出場の水球日本代表は、優秀な競泳選手を集めて練習を重ね、五輪に備えてきたという。

 メンバーの1人で、当時早稲田大学法学部の学生だった土井修爾さんは広島県出身。五輪後、母校である広島二中(現・広島観音高校)の同窓会誌にこんな文章を寄せている。

 横浜港から出帆した日を振り返り、〈両手一杯に握られた五色のテープが切れ、船が静かに岸壁を離れて行く時、私は日本に誓ったのです。私達は日本の名を恥めない様堂々と戦ひ、必ず勝って参ります〉。

 しかし、現実は厳しかった。本番まで外国チームと戦ったことはなかったという日本代表は、3戦全敗で4位だった。

 

 〈完全に敗けて終いました。ドイツに、ハンガリーに、アメリカに、一點すら得る事なく敗けたのです。勝ちたかった。一點でも取りたかった。だが實力の差如何とも為し得ない。良きスポーツマンは決して言譯をしないものだ〉

 敗因に、競技生活の短さや外国選手との体格の差などをあげ、〈敗因除去の為め、荊の道をたどるのが吾々の義務であり責任である〉と締めくくった。

 五輪後に結婚し、弁護士を目指して法律の勉強に励みながら、日本水上競技連盟の幹事も務めていたという。

 陸軍から召集されたのは五輪出場の5年後。広島が拠点の陸軍第5師団に所属し、中国戦線に向かう予定だった。

 直前、無線を使った訓練中に耳を負傷し、丹毒(細菌感染症)になる。召集の翌年夏、広島陸軍病院で死去した。28歳だった。

 その月、地元の新聞に「土井中尉 病死が残念」という見出しの記事が載った。

 ロサンゼルス五輪に出場した「明朗スポーツマン」と紹介され、「第一線に立つ覚悟をきめていましたが、突然丹毒に犯され病死して残念でなりません」という父のコメントが掲載された。

         ◆

 残された妻、父、母は、その後、広島で原爆死した。生き残った土井さんの長女の佐々木叔子さん(87)は今、神戸市で暮らしている。

 父がロサンゼルス五輪に出場したのは生まれる前。父が戦病死したのは、4歳の時だった。

 そして、父のオリンピックの「栄光」に触れたのは、つい3年前のことだ。

 九州にいた叔父が亡くなり、遺品整理をしていた親族が偶然、ロサンゼルス五輪の記念メダルを見つけた。

 神戸に郵送されてきたメダルには、「OLYMPIAD 1932」「LOS ANGELES」の文字。鈍く光っていた。

 

 初めてメダルを見た叔子さんは「お父さん、えらかったんだ…」と思ったという。

 叔子さんが父の過去にゆっくり向き合うことは、これまでなかった。11歳で終戦を迎えてから、生きるのに必死だったから。

          ◆

 叔子さんが覚えているのは大きな背中だ。

 「はいどうどう はいどうどう」。お馬さんごっこをしてくれた。

 弁護士になるはずだった父は、陸軍に召集され、軍事訓練中に戦病死してしまう。

 その7年後。叔子さんと妹、母、祖父母が暮らしていた広島に原爆が投下された。

 「Bが来とる!」。叔子さんがいた学校で、B29爆撃機を見た男の子が叫んだ。ピカっと光り、熱い爆風が一気に襲ってきた。

 姉妹は当時、市の中心から離れた場所に疎開していた。だから、母が迎えにくるのをずっと待っていた。

 だが、実家がある市中心部から歩いてくる人の姿は想像を絶するものだった。「皮が全部ぶらさがったり、真っ赤な裸だったり。口で言うても伝えられないぐらい」

 後日、広島県産業奨励館(原爆ドーム)に近い実家の台所で、母の骨が見つかった。

 確認できたのは、頭蓋骨の近くに愛用していたたくさんのヘアピンがあったから。祖父と祖母も爆死した。

 身寄りを失った幼い姉妹は、親類宅に身を寄せた。生活は一変した。

 「悲しみを味わっている間なんてなかった」と振り返る。

 周囲から「叔子のお父さんはオリンピックに出たんだよ」と言われることもあったが、そうなんだ、と思うだけだった。

          ◆

 叔子さんは20歳で結婚し、広島を離れた。3人の子育てに追われ「父のオリンピック」は遠のいた。

 一方で、原爆の記憶は心と体にこびりついていた。8月は気持ちがふさぎ、ベッドに横になった。甲状腺が腫れ、乳がんと胃がんを患った。

 思いがけず対面した五輪のメダルは、広島の父の母校の同窓会に寄贈した。未来に伝えてもらえるように。

 「私はもう87歳ですから」-。

 戦争に苦しめられた人生だった。「ああいうのは一切嫌です」。戦後76年の夏、叔子さんは声を絞り出した。

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