学校の教室一つ分ほどの部屋に、ガラス戸付きの棚が並ぶ。中に資料があふれている。
美方郡新温泉町にあるJAたじまみかた畜産事業所の資料室。所長の田中博幸さん(56)に見せてもらった。
ひもでとじられた紙の束を手に取る。かすれた墨で「明治四拾壱年」「牛籍簿」と書かれている。中を開くと「牝」「黒」の文字。
美方郡で明治31(1898)年から書き残されてきた全国初の台帳。血統や生産者を記した「戸籍」のようなものだ。
神戸港が開港し、外国人が増え、牛肉の売買が盛んになり始めたころ。他地域でもまねされたという。
「美方が古くから牛と歩んできた証しです」。地元農家に生まれた田中さんが誇らしげに言った。
ただ、今に続く長い歴史は順風満帆ばかりではなかった。
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「なぜ但馬牛がよそより安いんだ!」「日本一と評価されていたから頑張れたのに…」
1998年秋。神戸市内で緊急に開かれた但馬牛生産振興決起大会。農家から悲鳴が次々と飛んだ。
「どん底でした」
当時、県畜産課係長だった但馬牧場公園但馬牛博物館(新温泉町)館長の渡辺大直(ひろなお)さん(61)は振り返った。
91年、輸入自由化で海外の安い肉が入ってきた。同時期にバブル崩壊。安く肉量が多い牛が好まれ、小ぶりで高価な但馬牛は嫌われた。子牛価格は下がり、90年代後半にはとうとう全国平均を下回った。廃業も相次いだ。
「それまでのやり方を否定された気がしてね」
活路を見いだしたい渡辺さんは、鹿児島県の畜産担当者に電話をした。同県は交配に但馬牛を使っていた。
「兵庫は今のままでいいですよ。外の牛の血は入れてほしくない」
他県の牛とは交配しない「純血主義」は守る。その上で高くても売れる牛をつくろう-。方針は定まった。
まず、「育種価(いくしゅか)」という考え方を取り入れた。霜降り度や肉の量をデータ化した“成績表”で、他県はすでに導入していた。
「わざわざ数値で示すのは抵抗があったんやな」。香美町で牛を飼って約40年の森脇薫明(しげあき)さん(58)は明かす。但馬のプライドが邪魔した、という。
だが、「看板」だけでは太刀打ちできない。実際、客観的に示すようになって子牛や枝肉の価格は上がった。
その作業は、但馬牛のブランドを再構築することだった。
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2001年のBSE(牛海綿状脳症)、10年の口蹄疫(こうていえき)発生…。業界は危機にさらされた。
それらを機に、牛の誕生から販売までの履歴を示す個体識別番号が義務付けられた。管理によって価値を高める流れは兵庫ではプラスに働き、風評被害も県外より小さかった。
「それでも、あぐらをかいたらだめだでな」と森脇さん。産地の目はさらに先を見ていた。
(宮本万里子)
2016/1/8