
捕虜収容所跡
1945(昭和20)年3月下旬、兵庫県朝来市生野町の播但線生野駅。列車を降りた約400人の男性が縦列で歩き始めた。和歌山や大阪に収容されていた英米軍などの捕虜だった。
都市部で空襲などが激しくなり、巻き込まれないようにするための「疎開」だった。一方、旧三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の生野鉱山では労働力が不足していた。行き先も告げられず連れてこられた捕虜たちは同町猪野々へ。大阪捕虜収容所の「生野分所」が開設されていた。
この記事は会員限定です。新聞購読者は会員登録だけで続きをお読みいただけます。