動員学徒ら7人が犠牲
太平洋戦争が進むにつれて、空襲がなかった地域でも人々の暮らしに戦争がより深く影を落としていった。工場での兵器生産や疎開受け入れ、列車の銃撃…。終戦から70年を迎える今夏、但馬に残された爪痕をたどった。まずは勤労動員された生徒ら7人が犠牲となった「楽々浦殉難」から話を進めたい。
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70年前の1945(昭和20)年5月14日正午ごろ。夏を思わせるよく晴れた暑い日だった。旧制豊岡中学校(現・豊岡高校)の生徒ら47人を乗せた渡し舟が、豊岡市城崎町今津の円山川右岸を離れた。
通常は20人乗りで、全員が立ったまま。次第にバランスを崩し、舟べりからバチャッ、バチャッと水が入ってきた。水面が膝上まで迫ると、生徒たちは一斉に飛び込み始めた。
雨の日以外は通学地域ごとに分かれて山中での薪炭作りなどに従事していた。沈んだ舟に乗っていたのは同町楽々浦での作業を終えた生徒たちだった。
「まるで映画を見ているよう。『あー』と思いながら見てましたな」
2年生だった能登茂行さん(83)=豊岡市竹野町林=は事故の情景を思い返す。舟が岸から離れる直前に降りて難を逃れた。
なぜ舟に普段の倍以上も乗り込んだのか。能登さんは、城崎駅発の列車の出発が正午すぎに迫っていたことを挙げる。
当時、能登さんたちは朝8時から山に入った。40センチほどの木を数本ずつひもでくくり、1日に5束がノルマ。「木を切るのこぎりがなかなか切れんのですわ。少しでも早く終わらしたい一心でした」
作業は半日で終わるが、帰宅しても田畑仕事などが待っている。徴兵で男手が少ない家も多く、娯楽や勉強より働くことを優先するのは当然。列車は2時間に1本。みな帰りを急いでいた。舟に教員ら大人はおらず、自制も効かなかった。
何人かは転覆した舟にしがみついていた。泳いで対岸に渡ったり、戻ったりする者もいた。ゲートルや地下足袋姿で、腰には重たいのこぎり。別の舟が出て大半が助けられたが1~3年生の6人と一般女性1人が浮かんでこなかった。沈没場所近くの川底で見つかり、ハマグリ漁の鋤簾(じょれん)でかき上げられた。
残された生徒たちは順に警察から事情を聴かれ、能登さんは夜9時ごろの最終電車で竹野町の自宅に帰った。
「死んだ同級生たちはみんな知っている。とにかく残念でならない。中学生まで動員し、依存していた国は冷静さを失っていたんでしょう」。一緒に作業をしていた同窓生たちは次々と鬼籍に入り、事故を語る人も少なくなった。「できるだけ伝えていきたいが、どうすればいいのか。自問の日々です」
(若林幹夫)
2015/8/12