昭和20年4月1日より島根県松江市中部第577部隊へ入隊を命ず-
1945(昭和20)年1月末。当時勤務していた川西航空機(現新明和工業)の宝塚工場に、故郷の福良町(現南あわじ市福良地区)から書留郵便が届いた。開封すると、日本軍への入営通知書だった。
本職は形削りの作業員。神戸の町工場で腕を振るっていたが、42年に戦闘機製造に徴用された。同工場では熟練の技術を買われ、伍長として養成工を指導。スピードと操舵(そうだ)性に優れた局地戦闘機「紫電改」や大型飛行艇「二式大艇」など、名機の機具作りを下支えしていた。
44年には徴兵検査も受けていた。結果は筋骨薄弱に加え、近視や乱視、色覚障害と判定されて「第三乙種」に。それでも、日本の戦局悪化と兵力枯渇に伴い、頑健ではない身も容赦なく動員された。3月10日の「陸軍記念日」に上司へ報告。覚悟は決めた。その直後に衝撃が待っていた。
米爆撃機「B29」の無差別攻撃で、何千人もの命が奪われたとされる神戸空襲だ。同17日未明、宝塚から見た六甲連山の南側は火の海に包まれていた。「あいつは無事なのか」。弟が兵庫区切戸町の町工場で働いていた。もう、気が気でなかった。
安否を確かめるため、夜勤明けに神戸・三宮駅に降り立った。雨あられと降り注いだ焼夷(しょうい)弾で辺り一面、焼け尽くされた街を抜け、切戸町へ。弟は生きていた。だが、爆風で飛んできた木材が右足のくるぶしを直撃。大きく腫れ上がり、歩くのが困難だった。弟を背負って、神戸港から船に乗り、何とか福良まで戻った。
息つく間もなく、同29日に出征。「空襲で大きな被害が出た現実を見ると、勝利できるとは思えなかった」。神風が吹く、と必勝の信念に燃えていた心が揺らぐ。まちが一瞬で廃虚と化し、親しい人たちも死の危険に直面する、そんな戦争の恐怖を胸に刻んだまま、松江へと旅立った。
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「終戦は誕生」と語る元兵士がいる。板東一郎さん(91)=南あわじ市福良乙。本土空襲や旧ソ連抑留の恐怖から、淡路島への帰郷を夢見て生き伸びた。日本が武器を置き70年。今、命の記憶を紡ぐ。(佐藤健介)
2015/8/14