1945(昭和20)年8月9日、旧ソ連軍が日本に宣戦布告した。篠山市の細見竹雄さん(91)が所属していた「観月台陣地」の国境守備隊は戦闘態勢に入った。
「敵の戦車が50台ぐらい、国境に向かってやってきてな。すぐに馬6頭で野砲を陣地に運んだ。撃つのは専門の砲兵がやるさかい、わしらは20メートルくらい下がったとこに穴を掘って様子を見とったけど、ドーンいうたと思ったら気絶してもうてな。気い付いたら、血みどろで倒れとった。自分の血やないんや。敵の弾がそばにおった馬に直撃して、その肉が当たって気失っとったんやな」
「穴の外に出てみたら誰もおらへんかった。敵の戦車や歩兵はとっくに通り過ぎたみたいで、穴の底で倒れとったから気付かれんかったんやろうな。それで移動しよう思うたら、バリバリバリバリって機関銃がすごいんや」
「弾がな、通り過ぎるやつはヒューヒューいうけど、近くに落ちるやつはブルブルブルいうんやな。わしは不思議に当たらんかった。地面をはって何とか兵舎に戻ったら、後方部隊の方へ『前進すべし』って命令が出てな。前進やのうて後退すんのに、わざわざ『前進すべし』って、負けん気強いなと思うたわ」
竹雄さんが戻った兵舎には、30~40人の兵士が集まっていた。
「みんなで『山砲(さんぽう)』という1頭の馬で引ける武器を持って、後方に引き始めたんやけど、そこへ爆撃機が襲ってきた。低空でバリバリ撃ってきて、上昇するときに爆弾を落として行くんや。それで山砲がやられて、部隊は散り散りや」
「畑の馬鈴薯(ばれいしょ)を盗んで食べたり、中国人から蜂蜜をもらったりして歩き回ってな。1週間か10日くらいで別の部隊と合流して、拠点みたいな町に着いた。途中で日本が負けたと知って、やっと帰れると思うとった。武装解除して、ソ連兵が『ダモイ(帰国)』と言うから貨車に乗ったんやけど、そしたらそのままシベリア行きや」
竹雄さんは、バイカル湖の北西に位置するタイシェトに連行され、生死の境をさまようことになる。そのころ、竹雄さんの4歳下の弟、橋本信雄さん(87)=旧姓・細見=も、ウズベキスタンで旧ソ連軍の捕虜になっていた。だが、お互いがその事実を知ったのは帰国してからだった。
「わしが戦争にいったとき、弟はまだ10代やった。いくら兵隊が足りんいうても、だいぶ年が下やし、まさか弟まで戦争に行っとるとは思わんかったんや」(小川 晶)
2013/5/25