篠山市の橋本信雄さん(87)が抑留されていたウズベキスタン・アングレンは、日本から直線距離で約6千キロ離れている。
「仲間が亡くなっても、かわいそうちゅうより、うまいことやりよったという気持ちやった。死んだ方がましやって思ってたさかい。それでも、抑留されて2年もしてからやったかな。収容施設の壁に地図が張り出されたんです。日本列島の長さを手尺(てじゃく)で測って、アングレンまでの距離に当てはめてみたら、3倍の長さくらい離れてた。『これはとてもやないけど帰れへんわ』と思うて、ほならもうちょい人間らしい生活をしようと考えたな」
「抑留当初は、みんな普通の状態やなかった。『帰れる言うて、こんなとこに連れてきやがって』って思うとったし、日本の軍隊の階級制も残っとったから、殴り合いもあったしね。それが3年目くらいから、皆で協力して鉄板で風呂をこしらえたり、器用なもんがマージャンの牌(パイ)を作って楽しんだりな」
「休憩時間になったらソ連の警戒兵のとこへ行って、日本語とロシア語のチャンポンで冗談言うくらいになったさかいね。ノルマを達成できへんと『ヨッポイマーチ』と言われるんやけど、『バカヤロウ』ちゅうようなえげつない言葉やけど、それを日本人同士でふざけあって使うてたな。ちょっと失敗したら、声色を変えて笑いながらな。あれが、一番よう使ったロシア語の単語やと思うわ」
信雄さんが抑留されていたアングレンと、兄の細見竹雄さん(91)がいたロシア・イルクーツク州のタイシェトは約2500キロの距離がある。竹雄さんがここで生死の境をさまよったことは、連載の3回目で紹介した。ひどい腹痛と血便で体が衰弱し、「死の部屋」に入れられた。いったん死の覚悟を決めた竹雄さんが体力を取り戻し、ダモイ(帰国)を迎えるまでをたどりたい。
「血便と腹痛から救ってくれたんは、おばあさんに教えられた消し炭やった。水で消し炭を流し込んだら、何日かして腹痛が治まった。そのころにソ連の政治部員が見回りに来たんで、食事のひどさを訴えたんや」
「政治部員は『そんなことない』みたいなこと言うとったけど、しばらくしたらミルクが出てなあ。茶わんに1杯くらいやったけど、これやったら飲めたさかい、だんだん体がよくなって、1カ月ほどしたら歩けるようになった。それで本隊に戻ったら、みんなから『お前、死なへんのか』って不思議そうに言われたんや」(小川 晶)
2013/5/31