イルクーツク州のタイシェトに抑留された篠山市の細見竹雄さん(91)は、1946(昭和21)年になって屋外での肉体労働を免除された。竹雄さんは、幸運な出来事だったと振り返る。
「捕虜になった日本兵の健康状態を測るのに、等級検査いうのがあるんや。尻の肉をつかんで、肉に厚みがある達者なもんが1級や。取りあえず肉は付いとるちゅうもんは2級、皮だけがぎゅーっと伸びるやつは3級やったな。3級やったら、外の作業には出られへんねん」
「わしはもともと胃腸が弱いさかいな、やせこけて3級やった。そんときに、靴修理できるもんの募集があって、手を挙げたんや。畳屋の修業をしとったし、手先の器用さには自信があったでな。ほいたら、ソ連兵から『ハラショー』って褒められてなあ。ほいで、いっぺんに外に出んくてよくなったんや。あの時、靴の修理やっとらんかったら、とっくの昔にシベリアの土になっとんな」
「靴の修理に移ってからは楽さしてもろうたな。ほかのもんが外に出とうときに施設に残っとれたんや。靴修理は手先の作業やさかい、ストーブにまきをくべて、ぬくいところにおれた。回ってくるもんだけ直しとったらええから、ノルマらしいノルマもなくなってな。ほんまに運がよかったわ」
体力を消耗する肉体労働から逃れられたものの、いつになれば日本に帰ることができるのか、全く先が見えなかった。
「内地に帰れるなんてのは夢にも思わんかった。こんなところに連れてこられて、何とか生活は大丈夫やから、何やったら帰化せなしゃあないとか考えとった。実際に、帰化した日本人もおったんやで。技術を持った医者とかな、そういう人は待遇もよかった。ソ連兵からは『日本は敗戦後、アメリカに占領されてひどい状態や』って擦り込まれとったさかいね」
ある日、共産主義の講習を受ければ帰国できるという話を聞いた。
「そんな話、わしは信じとらへんかったから、勉強せえへんかった。ほいたら、内地へ帰った人間から収容所に手紙が来たんや。君たちも早う手続きをとって帰ってこい、いうてな。本物の手紙やったから、『ほんなら、ちょっと勉強しようかいや』言うて、8時間か10時間やったか、講習を受けてな。それでダモイ(帰国)の免許をもろた。いうても、わしは仲間の中でもう一番ケツやったけどな」
(小川 晶)
2013/6/2