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(1)シベリア 極寒の地獄 零下30度「3分で手が凍る」
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シベリア抑留の体験を語る細見竹雄さん=篠山市本郷 戦後、シベリアから帰国した抑留者を出迎える人たち(舞鶴引揚記念館提供)
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シベリア抑留の体験を語る細見竹雄さん=篠山市本郷

戦後、シベリアから帰国した抑留者を出迎える人たち(舞鶴引揚記念館提供)

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シベリア抑留の体験を語る細見竹雄さん=篠山市本郷 戦後、シベリアから帰国した抑留者を出迎える人たち(舞鶴引揚記念館提供)

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戦後、シベリアから帰国した抑留者を出迎える人たち(舞鶴引揚記念館提供)

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 京都府との境に近い篠山市の山あいに、91歳と87歳の兄弟が暮らす。兄の細見竹雄さんは畳職人、養子に入った弟の橋本信雄さんは公務員として、生計を立ててきた。太平洋戦争に従軍した二人は終戦直後、旧ソ連軍に連行され、民間人、軍関係者合わせて約5万5千人の日本人が亡くなった(厚生労働省推計、モンゴルを含む)とされるシベリア地方に送られた。極寒の地での苛烈な日々を、兄はぽつりと「地獄」とたとえ、弟は「人間が動物になった」と涙ぐむ。丹念に記憶をひもときながら、二人が語った「戦争の記憶」を紹介したい。最初に、兄の竹雄さんの抑留体験から書き進める。

 「零下30度くらいやと、風速1メートルの風があったら体感温度が1度下がるんや。10メートルだと10度。そんぐらい風がこたえるんや。3分間、手をさらしたら、もう真っ白やで。火で急にぬくめたらあかんねん。血管が紫色になって腐ってまう。ひたすらこすって元に戻すんや」

 1945(昭和20)年11月、旧ソ連軍の捕虜となった細見竹雄さんは、現在のロシア・イルクーツク州のタイシェトに連れて行かれた。シベリアのほぼ真ん中に位置する。そこで、モンゴルの北に広がるバイカル地方と極東のアムール地方を結ぶバーム鉄道の敷設作業に従事した。

 「山を削ってな、一輪車で土を運んで湿地帯に土を敷いた。ノルマちゅう言葉はロシアから日本に伝わったんやが、ソ連ちゅうとこは1日の仕事の量、つまりノルマが決まっとんねん。達成したら『ハラショーラボータ』言われた。『よい仕事』いうことやな。ほいで『ハラショーラボータ』を3回続けたら、増食があった。せやからみんな気張ってしよったけど体力的にしんどうてな。寒いし、増食というても、いいもんは食べさせてもらえへんしな」

 抑留当初こそ、持ち込んだ米などで食いつないだが、それが尽きると配給の食料だけになった。マッチ箱二つ分くらいの小さなパンとコーリャンの皮。それで1食だった。

 「寒いから薪(まき)取りに行くんやけど、みな栄養失調になってるから『小休止』と言われても、そうっと座るもんおらへん。バタバタバタいうて、こけるんと一緒や。しゃがむことができへん。一回座ったら、今度は立つんが大変や。足は弱ってしもうて、体力もあらへん。だんだん寒さも厳しくなって、ほいたら死ぬもんが出始めたんや」

(小川 晶)

2013/5/21
 

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