1945(昭和20)年、篠山市の橋本信雄さん(87)は、中国・遼寧(りょうねい)省の鞍山(あんざん)で終戦を迎えた。
「鞍山は、腕時計が1カ月で狂うくらい鉱石に囲まれとった。そこに『昭和製鋼所』いうて、内地やったら当時の八幡製鉄に匹敵するような、大きな施設があった。敗戦後はそこで、ソ連の指示で溶鉱炉とか設備を分解してね」
「ソ連兵はさかんに『トウキョウ、ダモイ』いうんやね。日本へ帰れるいう意味や。『せやから頑張って作業せい』ちゅうことや。11月に作業が終わって貨車に乗った。11月13日の誕生日は貨車の中で迎えましたわ。今も覚えとるな。『わし、二十歳やな』って」
97年に当時の厚生省がまとめた「援護50年史」によると、鞍山では3千人が抑留された。そして、45年11月24日~12月1日にかけて旧ソ連との国境を通過、シベリアに送られた。
「貨車1両に80人ずつ詰め込まれて、全部で50両ぐらいあったんちゃうかな。足を伸ばせないくらい狭くて、体育座りのような格好やった。横になるなんてできへんし、夜は前の人の肩に足を掛けて寝よった」
「みんな日本に帰るつもりやったんですよ。せやけど、東に向かうはずの貨車が西に行くんやね。『おかしい』っていうことになって、ロシア語の分かる上官が確認してくれた。そしたら『1年か2年、シベリアで辛抱せなあかんようや』と言うんでね。もう、しゅんとなってもて。家族がおる兵隊は特に落ち込んどったね」
信雄さんが連れて来られたのは、当時ソ連領だったウズベキスタン東部の炭鉱町、アングレンだった。引き揚げ者の聞き取り調査などに当たった舞鶴外務省連絡事務所作成の「ソ連に於(お)ける日本人収容所位置概要図」によると、鉄道の駅の周辺に、計8カ所の収容施設や病院が点在した。
「アングレンに着いたのは、12月やったと思うな。緯度でいうたら、日本の青森くらいですわ。だだっ広い山岳地帯で一面雪景色やった。ブアーッと風が雪を巻き上げるから、日本みたいに積もらんのね。息ができんくらいの風と雪ですよ」
「一つの建物に180人ぐらい入ったんかな。木造の平屋に、布を二重か三重にした天幕みたいな屋根がかぶせてあってね。収容施設全体で1500人ぐらいの日本人がおった。敷地は、有刺鉄線と電気が通っとる鉄線で囲まれとって、四隅にはやぐらが立っとって、ソ連兵が警戒しとった」
(小川 晶)
2013/5/28