阪神・淡路大震災は十七日、発生から一年を迎えた。被災地では六千三百人にものぼった犠牲者のめい福を祈る追悼式が各地で催されるほか、兵庫県内全市町に記帳所百六十二カ所が設けられる。兵庫県などは全国国民に正午の黙とうを呼びかけている。また、午前五時四十六分の地震発生時刻にも、各所の追悼集会などでは被災住民、参加者が亡くした家族、友人らをしのんで黙とう。続いて、防災訓練や、多分野のシンポジウムなど、日本の安全神話を崩壊させた震災を教訓として生かしていく多様な行事が展開され、再生への誓いを新たにする。
兵庫県や県議会、県市町会などが主催する追悼式典は、午前十一時五十五分から神戸市中央区の県公館で行われ、皇太子ご夫妻や橋本首相、土井衆院議長らが参列。終了後の午後一時から同七時までは一般の記帳や献花を受け付ける。
神戸、西宮、明石市、津名郡津名町でも遺族代表らが参列して追悼式が行われる。
各種の関連行事では、「阪神・淡路大震災総合フォーラム」が神戸市内で開かれ、鈴木国土庁長官と貝原兵庫県知事の報告に続き、政府の復興委員会委員長を務める下河辺淳氏が「震災と復興」をテーマに基調講演する。
被災地にとっては今年は復興元年。しかし、生活再建や経済復興など問題は山積している。約十一万三千棟の倒壊家屋の解体、撤去は三月末までにほぼ終了、倒壊した阪神高速道路神戸線も十月末に全面開通の予定。だが、神戸市内の旧避難所と待機所ではなお七百五十九人が暮らし、期限二年とされる仮設住宅には約九万人が生活。県外の公的住宅に移った約四千八百世帯も入居後一年の一時入居の期限が迫っており、各自治体は恒久住宅の建設促進などの取り組みを迫られている。
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共生の都市 目指そう 阪神・淡路大震災から1年
震災の年がゆき、また一月十七日が来た。
今年は、力強く復興へ、生活も街も歩み出す一年であってほしい。
けれども、傷ついた街々は、まだくすんでいる。ぼつぼつ新しい家が、更地に建ち始めてはいるが、なかなか「わが家」の姿が見えてこない人も、まだ大勢いる。仮設住宅で年を越した人々、高い賃貸や親類知人宅に身を寄せている人々、なお旧避難所やテントなどから出られない人々。元の街への望郷が人々の心を焦がしている。こうした人たちみんなに「わが家」が見つからない限り、私たちの街は復興したとは、とてもいえない。
阪神・淡路大震災は「心の激震」でもあった。親しい者の死、家財や街の消滅という喪失体験を癒(いや)していくには、年単位の時間がかかる、と精神医学はいう。そんな被災者に「一年」たった今、かぶさってきているのが生活再建という厳しい試練だ。
震災は、都市圏に潜在していた社会的「亀裂」を露呈した。経済力や年齢、国籍、地域の違いは、一年後の現在、いっそうくっきり現れて来た。被災者と、ひとくくりにできなくなっている。家の再建ができる人もあれば、これから建つ公営賃貸住宅、その場所、家賃を思って、胸が締めつけられている人もいる。
なぜ仮設住宅で孤独に亡くなる高齢者が、あとを絶たないのだろう。生きる意欲の減退が遠因ではないだろうか。震災前まで支えになった下町の人縁を喪失し住まいや暮らしに展望が持てないとき、老いた人は生への執着を失っていくのではないか。
こうした社会的弱者に希望をともし、生活をしっかり立て直す助けができなければ、復興は失敗といわなければならない。
戦後五十年の日本は、阪神大震災のような異常災害で壊滅した都市圏を、その人々を、しっかり支えるようには構築されて来なかった。防災の段階から初動の救援、その後の生活再建や都市復興の過程に入って、ますますそのことがあからさまになっている。
「心の激震」によって、がれきの中での相互扶助やボランティアの支援などから私たちが得たのは、「一人では生きられない」「互いに助け合ってしか生きていけない」という「共生の思想」だった。
ひたすら物質的豊かさを追い求めるうちに、戦後日本の制度も、組織も、思想も、ぽっかり忘れていたことだ。中央政府も、その主導下にあった自治体も忘れていた。こんどの悲惨と、救済のぎごちなさが、そのことを物語っている。
被災地の新聞社である私たちは、被災者の声を、さらにきめ細かく聞き、「外の世界」へ通じる普遍的な言葉や論理で伝え、助け合って生きて行く市民社会を起動力とする都市づくりに参加しつつ、中央政府より市民生活に近い自治体政府を強める方向で、日本を動かしていきたい。
大きな制度が変わるには十年かかる。私たちの震災報道は始まったばかりだ。(論説委員長・三木康弘)
1996/1/17