十七日午前五時四十六分、阪神・淡路大震災は発生から一年となり、兵庫県内の被災地では六千人を超す犠牲者を思い、悲しみを新たにする朝を迎えた。地震発生の時刻。暗やみのなか、今は更地になった自宅跡などで亡き家族や友人のめい福を祈り、手を合わす姿があった。兵庫県や神戸市は追悼式を主催し、学校や企業でも慰霊の行事が開かれた。正午、県などの呼び掛けで、市民らが街で、家庭でそれぞれに黙とう。列車や港に停泊する船も、一斉に汽笛を鳴らした。午後には震災の教訓を話し合うシンポジウムなども開かれ、被災地は終日、鎮魂の祈りと復興の誓いに包まれた。
<鎮 魂>
五時四十六分、地震発生時刻を迎えた被災地は、いつもと変わらない、しんとした夜明け前の街だった。ぽつり、ぽつりと線香の火がともり、遺族の悲しみの表情が暗やみに浮かんだ。
神戸市長田区日吉町六、高橋昌子さん(58)は、夫勝さん=当時(63)=の月命日には決まってこの時刻、遺骨が見つかった焼け跡に花をささげてきた。しかし、この日を最後と決めた。「いつまでも気にして、父さんが天国に行けない、と言われてね」
毎日書いてきた般若心経を燃やした。「熱かったね」。小さく声をかけ、水をまいた。長男と二人で手を合わせ、いったん離れたが、また戻ってかがみこんだ。「おまえは心配せんと、頑張り」。夫がそう言うのが聞こえた気がした。
神戸市長田区御船通の竹内美代子さん(64)は「きのうは地震を思い出して眠れなかった」。長女と二人、時計が五時四十六分を指すのを待ち、夫勤さん=当時(64)=の仏壇に日本酒を供えた。「おとうさん、私だけ生きてごめんな」と声が震えた。
東灘区では、慰霊行脚の僧りょの中に遺族の姿があった。同区森南町、向栄寺の副住職岡本和雄さん(36)は小三の長男と幼稚園児の長女を亡くした。「子どもたちはたくさん楽しい思い出をくれた」。そう言って、供養の行列に加わった。
新潟市鐙の会社員小沢勇さん(56)は、この時間に合わせ八時間かけて同区に来た。甲南町には亡くなった長男勇一さん=当時(29)=がいた。「いずれ実家に戻ってくれる予定だった。この瞬間に現地で供養してやりたかった」
当時避難所だった芦屋市茶屋之町の西法寺には、遺族と避難していた約八十人が集まった。高校生の息子を亡くした母親が「がれきの中の遺体はまだ温かかった」と泣きじゃくった。「町がきれいになっても、一生いやされない傷がある。震災の痛みはうずき続ける」。副住職、上原照子さん(44)が涙をこらえ、語りかけた。
一方、神戸・ポートアイランド第二仮設住宅の集会所には約百人の住民が集まり、黙とうした。
静かに頭を垂れる人、そっと涙をぬぐう人…。谷山ソノエさん(50)は「妹も弟も私も家を失い、親しい人が何人も亡くなった。こうして生きていることに感謝したい」。
三十四世帯がテント生活を送った神戸市東灘区の中野南公園。再びたき火が燃え、かつての住人らが戻って来た。
折りづるを飾った祭壇前で黙とうした高橋照代さん(52)は「ここを離れても、苦しい生活は変わらない。助け合いながら過ごした時がなつかしい」と話した。
<教 訓>
震災一年は、あの経験を今後にどう生かすか、あらためて問う朝となった。
午前五時四十五分、兵庫県庁の二号館五階庁議室。一年前、割れた窓から寒風が吹き込むなか、たった五人で初会議を開いた同じ部屋に、貝原知事以下、幹部二十五人が災害対策本部会議を開いた。
全員が再び、震災後百日で脱いだ濃紺の防災服姿。四十六分に黙とうをささげた後、一年間の各部の取り組みを総括し合った。
西宮の日本災害救援ボランティアネットワーク(伊永勉代表)は、地震発生時刻に合わせて訓練を実施。自宅にいるボランティアたちから、一年前の被害状況を電話してもらい、宿直組が情報を西宮署などにファクスした。
震災当日、史上最多の六千五百件超の一一〇番を受理した兵庫県警通信指令課は、打って変わり静かな朝を迎えた。同じ時刻、「兵庫県南部に大地震が発生」との想定で非常招集伝達訓練が始まり、通信指令室から県内全署に指示が飛んだ。
1996/1/17